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被爆から平和の語り部へ ―母から娘へ 
近藤 泉(こんどう いずみ) 
性別 女性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分)   執筆年 2018年 
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

いつも人の幸せを願い笑顔が素敵な母は、戦いの20世紀を見届け、21世紀の平和のために生まれ変わるように、3人の子ども夫婦と10人の孫に囲まれて2000年の春に亡くなりました。

母は横須賀生まれ東京育ち、書道を極め花や山登りが大好き、恋もする可愛らしい普通の女の子でした。許婚はビルマで戦死、ビルマの竪琴の主人公のような人だったそうです。戦争当時は代々木に住んでおり長崎県佐世保市郊外に家族で疎開していました。

母は23歳の8月6日のあの朝、空襲の後片付けに疎開先から帰京する時に全くの偶然で広島駅に降りてしまいました。爆心から1.8キロ・JR広島駅前付近で被爆し、肩から剥けた皮を引きちぎり血だらけになりながらどんどん爆心地へと逃げ惑い、生き地獄をさまよいました。

母は救護所で看護を受けましたが刻々と悪化し死を待つよりはと40度の高熱の中、家族に会いたい一心で2日掛けて佐世保に帰り着きました。長崎に原爆が落ちた8月9日でした。広島の爆心2キロ以内での生存者はほとんどいないため、普通の被爆者ではなく国から「特別被爆者」の認定を受けました。しかし母の名前は「被爆者」ではありません!「永石和子」という名前の、皆さんと変わらない生活を送り幸せを夢見ていた普通の人です。広島の爆心地、今の平和公園も当時は映画館やレストランやたくさんのお店が並ぶとても楽しく賑やかな街だったそうです。私達が吉祥寺にお買い物に行きランチを楽しむような、同じ生活がありました。

母はその後結婚し被爆7年目から健康な子どもを3人産みますが、全身症状の原爆症と死の恐怖、子や孫への影響の不安に悩み、失意の底に沈んでおりました。自分の足下に苦しむ果てしない数の人々を助けることができずに、自分が生き延びたことを責め続け、毎晩広島の光景を夢に見てうなされ、朝起きると自分の足首に「助けてください!助けてください!」と人々がしがみつく手の感触がそのままある、とよく話していました。訪ねてくる新聞記者達には、あまりにも辛い体験を一言も語ることはできませんでした。

被爆から20年後の1965年頃、母は原稿用紙50枚にわたる被爆体験記「いのち」をまとめ上げました。万年筆で手書きで清書した原稿はほとんど書き損じがなく、全魂込めて必死に書いたことが痛い程分かります。閃光を浴びた時、母はたまたま半分日陰に立っていたとは言え、生き残ることができたのは本当に奇跡としか言いようがありません。「悲惨な体験は自分で終わりにする。二度と戦争は起こさせない!」との強い祈りが50枚を書き上げる力となりました。

その後母は自らの宿命は使命に他ならない、平和のために我が子や色々な世代に辛い体験を語り継いでいこうと敢然と立ち上がりました。神奈川県の高校生の集会で被爆体験を語り、新聞に「生命の尊厳について」の小論文を投稿し、地元のコミュニティー誌や母校の同窓会報に体験記連載を頼まれ、地域の様々なセミナーで体験を語り、亡くなるまで友人に平和を語り続けました。また、私が高校生として広島平和資料館の原爆記録映画の上映活動をしたり、その後の草の根の平和活動に取り組む姿をずっと見守ってくれました。

広島被爆から60年目の2005年に、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に活字にした母の体験記を寄稿し登録・公開され、祈念館に来られた方達が読んでくださいました。また、私も東京の地元中学で3年間、平和学習の講師として母と私の平和への思いを語る機会を頂きました。体験記を教室に置き生徒達から感動的な感想文を貰いました。公民館の講座からの依頼で『戦争を体験した』方達に『戦争体験のない』私が話をさせて頂き、体験記を参加者に差し上げたこともありました。地域の平和セミナーに参加された方々、子どもの学校の校長先生始め先生方・自分を大切にしない中学生達・親御さん達・若い世代のみなさん、様々な年代の方々に体験記の贈呈を続けています。

地道ではありますがこの体験記を語り継ぎ、母の思いを受け継ぎ、平和の砦が少しでも広がればと願っております。

2018年5月、母の体験記の広島原爆死没者追悼平和祈念館ホームページでのインターネット公開の手続きをしました。祈念館の職員の皆様に大変お世話になり5月23日に公開されました。長い間体験を一言も語れなかった辛さを乗り越え、人生の山や谷を越え原爆症と闘いながら、まさに命をかけて書いた体験記なので、母が生きていたらどんなにかほっとしたことかと思います。

インターネット公開と同時に母の体験記を祈念館主催の催しなどでの活用や国連・報道機関など公的機関などが行う事業に使って頂くことにも同意致しました。更に英語などに翻訳されれば世界中のどこに居る方にも母の体験を読んで頂けます。「平和のために、たくさんの人に、若い人達に、体験を伝えたい」との母の願いがようやく実現します。またこの時にICANがノーベル平和賞を受賞し草の根の平和の流れが世界のあちらにもこちらにも湧いてきていることを誰よりも喜んでいると思います。

被爆体験記や証言を残された多くの方達が実は辛くてご家族には一言も語っていない、語れない、と伺います。原爆も戦争も経験したことのない私に何が伝えられるのかと思うこともあります。しかしだからこそ、私の小さな声であっても、母の代わりに私が語り継ぎ、今ここから私から始めることが大切なのだと思います。私も平和の語り部として母のように強く生きていこうと思います。
                                                        
2018.6.7

 

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※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
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