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淡いピンクの火柱 
武内 真清(たけうち ますみ) 
性別 男性  被爆時年齢 34歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1978年 
被爆場所 広島文理科大学(広島市東千田町 [現:広島市中区東千田町一丁目]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島文理科大学 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
妻が疎開先の中配(今の中国電力KK)の五日市寮で長男伸雄を出産したのが八月一日、八月七日の命名祝をしてやるためと、食糧買出しを兼ねて、藤原研究室の三宅孝明君と一緒に三次市神杉町(当時は双三郡神杉村)の神主岡部先生宅に行き、米を三升程を分けて貰い、西観音町二丁目の自宅に帰り着いたのが五日夜八時頃であった。隣家の義父(宮田孝吉氏)の家に行き叔母(宮田リウ)に米二升を渡し、ついでにどぶろくの出来具合をみて、三宅君と床についたのが九時頃であった。六日早朝家を出て広大の研究室に着いたのが八時、三宅君は私と二人分の朝食(ひとにぎりの米に芋のつると南瓜の花を加えた粥)の準備にかかってくれ、私は光学実験室で分光機(長さ一・二メートル、重さ一トン位)にとりつきスペクトル写真の撮影を開始した。中国新聞が連載中の「もう一つのヒロシマ」を読んでみても分るように、社員の方々の被爆状況は種々様々で一瞬の差が生死につながっている。

光学実験室のある本館に平行して、金工場と木工場の建物があった。平常はこれら工場の職員達と木工場の外に置かれた長椅子に腰かけて八時半まで一服しながら雑談に時を過すのが常であった。六日の朝に限って、私は実験にとりかかった。これが私の命を救ってくれたことになった。八時十四分頃、三宅君が朝食が準備できたから一緒に食べようと実験中の私の側にやってきた。彼曰く「今日のB29はおかしい」私は二重壁の光学実験室の中にいたのだから爆音も聞えなかった。私の分光機の位置の所だけ一重壁にしておいたので二人は期せずして窓ガラスを通して上空を見あげると、中空にピンク色の巨大な火柱が見えた。無言で二人は出入口に向って走った。つぎの瞬間、二人は大爆音と共に出入口の所で床に叩きつけられた。三宅君が下でそれに折り重なるように倒れた私の上に二重壁の間に貯蔵して立てかけてあった柱の数本が胴に直角に落ちかかってきた。三宅君は幸い無きずで自分の研究室に廊下を走り去った。横腹にひどい痛みを感じ立ちあがれない。2メートル程廊下を進めば左側にオドリ場がありそこから屋外に出られる。無我夢中で這いながらオドリ場にきてみると、いつもそこに置いている自転車が釘のついたタルキ状の棒ぎれで覆いかくされるほど釘付棒ぎれが爆風によって集積されていた。今考えてみても爆風の凄さが想像を絶するものであった事が分る。必死で釘の山をのり越えて金工場の横の空地に到達し横になった。すぐそばに塀があり塀の外は民家である。横になって三十分ぐらいたって塀の外の民家が燃えはじめ盛んに火の粉が飛んでくる。田崎教授の教官室を見ると、教授夫人と学生が退去準備をしておられたので、手を振って救助を求めた。教授の指示で学生がやって来て光学実験室裏の植物園まで連れていって呉れた。私の横には担架に乗せられたままで数学の教授が横たわっておられた。外傷もなく死亡されていた。当時は学徒勤労令が実施されていたので、文科系学部の学生は呉や広に派遣されていたので学内には理科系学部の教授、学生だけが研究に従事しており、その人数は少なく、しかも殆んどのものが重傷を受けており被爆死した者の処置にも手がまわりかね、自分を守るのが精一ぱいであった。間もなく、三宅君が尋ねてきて、千田小学校前の建物疎開をした広場に連れ出して呉れた。広場のまわりは火の海で、多数の被爆者がこの広場に集っていた。羽を焼かれた鳩がのたうちまわっている。道路へだてて並んでいる数十軒の家々が同時に放火されたように猛火を吹き出している。血まみれになった老人が家の中にいる家族の者を救出してくれと大声で叫んでいるが誰一人助けに行かない。建物疎開から除外された白亜の高い建物がこの広場の端の方にあった。被爆者はこの建物の周りに集まっていたが屋上付近から白煙が出はじめ屋上から燃えはじめた。炎上地区から二〇〇メートルも離れているので類焼は考えられない。ピカドンが炸裂したときの放射熱が屋上付近にあった小鳥の巣や燃え易い塵芥(ごみ)類を焦したに違いない。宇品の船舶司令部から救援トラックがやってきたが外傷のない私などは乗せてくれない。三宅君に助けられて御幸橋を渡り、陸軍共済病院まで歩いて行かざるをえない。県病院前の広い庭は重傷者で一杯、病院内の廊下はめざしを並べたように殆んど死にかけた患者で足の踏み場がない位で、負傷した医師と看護師が治療に忙しくたち廻わっている。その時の私の状態は診察の対象にはならない。さてどうしたものかと思案していると、この近くに真鍋さんの家があることに気づいた。真鍋さんは義父の部下の方で私が中学生時代から懇意にして頂いた方なのでひと晩泊めていただくことにした。真鍋さんの家のまわりは、火災も起らず、爆風による破壊だけが目立つ。真鍋さんの家も天井が半分位垂れ下がり、窓ガラスは全部破損しており、庭に横たわって一夜を過すことにした。

午後一時頃、建物疎開に行っておられた女学院中学二年生の孫娘さんが帰宅された。全半身火傷の身でやっとたどり着いた自分の家に入るなり、ばったり倒れられた。凄惨に変りはてた娘をみられた真鍋ご夫妻の悲痛な心情を思い涙するばかりでした。三宅君に手伝って貰い庭に蒲団を敷いて火傷の手当をし終ったのが夜八時頃でした。今朝出掛けられた真鍋家の長男ご夫妻は未だ帰宅されず唯々ご無事を祈るだけでした。市の中心部一帯の残り火の炎が静かな暗黒の夜空に赤々と映えている。今日一日に起ったことを思い出して仲々寝つかれない。私自身も大学校内に爆弾が落ちたに違いないと思ったが周囲を見廻してみると次第にそうでないことが分り始めた。特殊な強力な爆弾にちがいないと思っても原子爆弾とは思いもよらなかった。義父夫妻はどうなっていられるのか、妻は私が死んだと思っているだろう。光学の主任教授は無事だったろうか。走馬灯のようにいろいろな事が思い出されて中々眠れない。七日朝八時、三宅君は郷里に帰るために広島駅に向って、私は杖をたよりに観音町に向って、真鍋氏宅を去る。御幸橋を過ぎると焦土と化した電車通りに可成の人々が被爆者さがしに動きまわっていた。明治橋の袂の両側に真黒に脹れあがった死体がマネキン人形を積み重ねたように集められている。六日午後に救援隊が処置したものだ。川をみると、死体がいく体も流れている。住吉橋を渡るときみた状況も全く同様であったが人通りはまばらになり、未処置の死体が焼跡のあちらこちらに見られた。電信柱はまだ焼けくすぶっている。見渡す限りの焼野原になった市街地をみて、投下された爆弾の威力が爆弾に対する認識を越えるものであることを知らされた。新型の強力なものに違いない。舟入地区の救護隊の兵士から乾パンを貰い杖をたよりにのろのろと自宅に向って歩いていたら隣家の主人(三菱造船勤務)に会ったので様子を聞いたところ、私の家も隣家も倒壊後に焼失したとのこと。宮田家も類焼して倉だけが残っているとのこと。仕方なく、己斐、庚午と五日市に向って歩く。五日市の寮に着いたのが午後五時。長女の紀代子が真先に私を見つけ二階に案内してくれた。みんな私の無事を喜んでくれたが、義父が出勤途中で被爆され、上半身に火傷されて病床に伏していられるのをみて残念でなりませんでした。叔母リウさんは軽傷であったのが不幸中の幸いでした。悲惨な犠牲者を現実に見聞した私の心からは戦争に対する憎悪を消し去ることは出来ない。たとえ、この身が朽ち果てても。

あとがき
真鍋さんの若夫婦のうち、若奥さんは六日早朝親戚を訪問されました。猿猴川沿いの家の二階で話をしているとピカドンが炸裂し爆風で川の中に放り出され、似の島まで筏と一緒に流され、そこで死亡されました。若主人は七日に帰宅されました。奥さんを捜しに奔走されましたが、二ヶ月後に原爆症で死亡されました。娘さんも死亡され一家全滅。生き残られた老夫妻の心情、まことに哀れというほかに言葉もない。

木工場、金工場職員の数人は真正面から放射線を受けると同時に強烈な爆風で数メートル先まで、いろいろな方向にはね飛ばされて皆重傷を受けた。昭和三十年頃、ケロイドのひどい一職員と出会い当時の様子を聞いたところでは二人だけ生存しているとのこと。

当時、重役であった義父も通勤途中(自転車)真正面から放射線を受け、顔、首、両手の火傷がひどかった。被爆後自宅に帰り、火災から護衛するため家の周囲を見て廻り、安全性を確めて、五日市に行かれたとのこと。永い間、西式健康法を実行してきた義父は西式指導員の指示をきいて絶食療法を始めた。放射線の伴う火傷に対する認識の欠如(これは当時の誰も知っていなかった)が義父の死を速めたのかもしれない。十三日に逝去された。今考えても残念でならない。小学校卒業後、独学で電気技術者としての最高の資格を得られ、今の中電の発展のため、偉大な貢献をされた努力家の義父、而かも稀にみる素晴らしい人格者の義父。私の脳裡から永久に忘れられない方を失なって、私の人生も大きく変化してしまった。 

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