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原爆記録 
佐野 シノ(さの しの) 
性別 女性  被爆時年齢 41歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1985年 
被爆場所 広島市富士見町[現:広島市中区] 
被爆時職業 一般就業者 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
原爆投下時にいた場所と状況
広島市富士見町
町内の人々は殆ど全て死亡
完全な焼野原
ガラス破片で重傷

今年は終戦から四十年歴史的な節目を迎えました。けれど私は原爆被爆者として忘れることが出来ません。昭和二十年八月六日広島に原爆が投下された。私の家は広島爆心地から一キロ以内の富士見町に住んでゐた。主人に先立たれ、まだ中学生の息子と母一人子一人の淋しい生活ながら、息子は淋しさを見せず、けなげに学業にはげみながら学徒動員で軍事工場に通ってゐた。丁度その日は広島を離れ岩国の軍事工場に動員してゐた。家に一人居た私は、子供の不在中空襲にあって死んではいけないと心に念じながら、この朝も家の掃除をしてゐた。その時ピカッ、ドカン、ドカンと耳をつらぬく音にあう。大変だ我が家に爆弾が落ちた。さあ「大切な物を持って」と思ったまゝ何も分らない。家はふっとび、そのまゝ家の下敷となって硝子の破片につきさゝれ、血まみれになって無我夢中で逃げた。途中、こゝに居てはあぶないよー、家が焼け出したよー、といふ声に又ふらふらと川の方へ逃げた。川では火傷を負った人々がざぶざぶと川の水で冷してゐた。その水音を遠くに聞きながら、私は出血の為何もわからなくなって、そのまゝたほれてゐた。

小母さん、小母さん、と呼ぶ声にふっと気がつくと兵隊さんの姿、この兵隊さんはあとで聞けば負傷者や死体をのせる救援隊のトラックの兵隊さんとのこと。そのトラックにのせられて、宇品の学校の運動場のむしろの上に寝かされた。そのむしろの上にはすでに火傷の人や負傷者の人が多勢寝かされてゐた。右の人も左の人も、痛いよ、痛いよ、と云ひながらもう息たへてゐる。水、水と云ひながら又死んでゆく。子供の名を呼ぶ人、親を呼ぶ人、ほんとに此の世の地獄である。私もぞくぞくとして寒けがする。寒い寒いといへば兵隊さんがむしろをかけて下さった。うとうととしてゐると、眠ったらいけない、と注意して下さる。しばらくして又兵隊さんが来て、こゝにゐては危険だから、これから呉の「さか」といふところへつれて行くと云って、みんな舟にのせて行くことになり、つぎつぎと舟にのせられた。途中私の右手の傷の出血が止まらないので、兵隊さんがこれは大変だと云って、止血の為右の肩をひどく紐でしばって、頭と手につきさゝった硝子を抜いて下さった。けれど痛くて痛くてたまらない。せめて肩の紐をといて下さい、とお願ひすれば、紐をとくと死ぬるよ、と云はれ、あゝ死んではいけない。子供に会ふまでは。あゝあの子はどうしているだろう。広島中を探し求めてゐるだろう。苦しい。痛い。死にたくない。生かしてください。とたゞ神仏に祈らずには居れなかった。

そのうち舟は呉のさかといふところへ着いた。坂はまだ戦災もなく、隣組の婦人会の方々が学校に集り私達を親切に迎えて下さった。そして白いお米のおにぎりや野菜の煮物などをめぐんで下さった。冷いお茶も頂きその御親切は今も忘れることが出来ない。
つぎつぎと舟がつく。火傷の人、負傷者の人、服はぼろぼろ、血まみれになり、ハダカ同然の姿、特に火傷の人は身体の皮も顔の皮も赤くはげて化膿して顔の形も分らず、とても見るにしのびなかった。学徒動員の学生さんも何人かゐて、痛いよ痛いよ、お母さん、お母さん、と泣きながら呼んでゐるその可哀想な姿に私も泣かずには居れなかった。最後はその学生さんは、「あ、お母さん、今来たの」とうれしそうな顔、お母さんの幻に会って息絶へてしまって、その可哀想な姿を見るにしのびなかった。

この次は我が身ではないかと思はれて、又死に度くない思ひに苦しみながら、あゝ子供は今どうしてゐるだろう。毎日毎日この母をたずねて探し求めてゐるだろう。たまりかねて兵隊さんにお願ひして、息子の動員先へいろいろと手をつくして知らせて頂いた。まだ汽車も不通とのこと、とてもこの地まで無理と諦めてゐる時、突然息子がこゝまで舟にのせて頂き尋ねて来てくれた。

この日まで息子は生死の分らないこの母をたづねて毎日毎日歩いたといふ。広島の街の家々は焼けてその影もなかったが門毎に備へた防火用水の水槽だけ、水をたゝえてそのまゝ残ってゐたという。その水槽の中には悉く火傷を負った男や女が水に浸ったまゝ醜く死んでゐて、女の死体を見ると、もしや母では、と一人一人見て歩き、又川べりの橋のまはりには、水にむくんだ死体が洪水のあとの材木のやうに互ひにひしめいてゐて、それらの死体にも、もしやと視線を注ひで通り、毎日毎日この母を探し求めて、今日はからず兵隊さんの知らせを受け、会ひに来て呉れたのである。可哀想にやつれたこの子の姿を見るとき泣かずには居れなかった。

「お母さんよく生きてゐてくれたね」「僕は天下のみなし子になったのか」

どこの親類に行っても、君は母方の従兄の家に行ったら、と云はれ、母方の従兄の家に行けば、父方に行けばと敬遠される。口の付いた者はみんな、たらひ廻しにされる戦争中のこと。あゝ可哀想に死なれないこの子を残しては死んでも死にきれない。せめて三年だけでも生かして下さい。と天を仰ぎ地に伏して御祈りせずには居れなかった。けれどこゝに収容されてる人々はつぎつぎと死んでゆく。心細くなりとてもぢっとして居れなくなり、せめてふるさとに帰れば医師にも診て貰へるだろう、と父方の親類にお願ひして汽車の運転を待って帰ることにした。

従兄は大竹駅までリヤーカーで迎えに来て呉れて漸くふるさとの和木村に帰った。近所の方々も親切にして下さって、手足の傷にもドクダミがよいと云って多くさん取ってきて下さった。化膿した傷もドクダミのシップで不思議にはれがひいてきたけれど、白血球のせいか夕方になると気分が悪くなり、胸苦しくなってくる。医師に診て貰ひ度くてもその医師も広島で原爆に会ってその負傷者である。ほかに病院もなく困ってゐると、ある近所のおじいさんがこんどの新爆弾にあった人はとても医者でも快くならないそうだ。又薬もない、何でもお灸がよいのではないか、やってみたらと云はれ、大竹町のある灸医者を教えて頂いた。何しろ焼出されの身の一銭の金もない。従兄にお金を借りてお灸をすえて頂いた。そのお灸は頭から肩、お腹、背中、手と足、三十四ヶ所に七火ずつすえるのである。大変な灸ながら息子は一生懸命なれぬ手付ですえてくれた。毎日毎日かゝさずに。夕方になると貧血で気分悪くなってゐた身体が、お灸をすえ終るとすっとよくなって、日日元気をとり戻して来た。

そのうち待ってゐた下関の兄が見舞に来て、お金も持参して頂き、漸く生活に自信もつき、息子は広島高工に入学出来、広島の焼跡のかり校舎に通学出来るやうになり、その通学のため広島県下の大竹町に移転、二階を借りてほそぼそと二人の生活がはじまり、私はミシンの洋裁の内職をはじめ、生きのびたうれしさ。お灸は毎夜息子から真心こめてすえて頂き、死線を超えることが出来、息子は懸命に勉学にはげみ高工も卒業させて頂き、兄達のすゝめで、亡き主人の郷里の下関にかへり、焼残りの兄の家の借家に入り、やうやく一軒の家に住み、私は本職の洋裁をはじめ、息子は念願の東京大学に入学、西と東に別れ別れとなりながら、夏休み冬休みは必ず帰郷して私にお灸をすえおき、弱いこの身体も何とか、無理を通すことが出来、九死に一生を得て今は仕合ですけれど、私と同じ思ひで死にたくない死にたくないと、心を残して逝かれた被爆者の人々のお声が聞えてくるやうです。二度と核戦争があってはならないと思ひます。死もつらく、生きることのなほ苦しさを深く味わって来た被爆者です。あれから四十年生きのびて今は息子達に扶養され大切にして頂き住み心地よき東京都三鷹市に永住させて頂き、人情厚き市の皆様に守られて感謝のほかはありません。この仕合を思ふにつけ、毎年の原爆の日に悲しい思出に胸が痛くなってまいります。永久に世界平和のつゞきますことを祈るばかりでございます。拙き文章とペンを走らせ申訳もございません。今日原爆の日忘れられない苦しみの記録でございます。

合掌
  

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