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未来への伝言 被爆の体験と証言 
田 俊三郎(たなべ しゅんさぶろう) 
性別 男性  被爆時年齢 20歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 中国塗料(広島市吉島本町[現:広島市中区吉島東一丁目]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島工業専門学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
原爆投下時にいた場所と状況
広島市吉島本町
(株)中国塗料・変電室内
窓口、家、全壊、火災焼失、顔火傷、友人家の下敷、友人全火傷

一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
原爆爆発の爆風で広島市内の家は殆んど吹き飛ばされ、破壊された。その家屋の柱・窓・壁の破片で死んだり、裂傷したり、硝子がささったりして、血と埃で皆、真赤・真黒、着物は破れ髪の毛は乱れ、地獄の様を体していた。外にいた人は熱線で焼けただれ、皮膚はボロ布の様に垂れ下り、着物は焼けて腰部だけ残り、痛さに、手を前に出し、即死しなかった人々は幽霊の様にゾロゾロと歩いていた。路上には焼け焦げ人真黒い死体がゴロゴロ横たわっていた。路上で力つき、倒れた人は「水・水」と水を求めて、カスレ声で叫んでいた。太田川には白豚の様にふくれて何千と浮んでいた。この光景は忘れられない。又、死体の異臭は何十年も臭っていた。

二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
顔面火傷し、表面がなおるのに一ヶ月かゝった。一ヶ月床についていた。

白血球が二千台が二十年続いて、苦しんだ。その後白血球一万以上が十年続いた。肝臓を悪くし、一ヶ月入院した。現在迄、五十年間、医院に通いどうしである。

生活は、戦後、父は死に、弟妹三人、甥一人、母の生活の支えのため、病の身を引きずって闇商売等をやり、少い月給のたしにして、食うや食わずの生活を続け一九五五年迄、大変な生活だった。戦後五十年何とか生活できるが、又、母入院、医療費値上がりで、又、年金生活からの十六万超毎月の入院ヒは大変である。

三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
政府は、戦後補償をすばやくやって欲しい事と、再び被爆の惨禍がこの世界に起こらないように、平和の尊さ、被爆の実相を伝え、訴えたい。
そして、平和を大事にする人々を議員に選出するように訴える。
  

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