原爆投下時にいた場所と状況
広島市宇品町八丁目
船舶練習部研究部の事務室内
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
「ピカドン」(当時原爆の表現)から五〇年。
八月六日。昨夜来の空襲警報の解除と共に自宅(出汐町)を出発。連日の晴天続きで朝から暑い日であった。勤務先の宇品の陸軍船舶練習部(元大和紡績工場)に出勤、研究部の自室に入り業務開始の矢先であった。突然北側窓の方向に赤色と毒々しい赤黄色の細長い閃光がピカッと走った途端、「ドーン」の大音響と共に激しい震動。私は瞬間、反射的に床に身を伏せていた。気が付くと室内は一面ガラスの破片だらけ、右手にガラスがささって出血したが幸に軽症であった。
各室の窓ガラスは総て破損して散乱、足の踏み場もない状態。室外に出ると女子挺身隊員数名が頭や顔に負傷し、悲鳴をあげ乍ら医務室に走りこむのに出会う。
倒壊した建物はなかったが倉庫の側壁や扉が大きく押し曲がり、凹むでいる。これは従来の爆発物ではないと直感した。(従来の砲弾や爆弾が炸裂した場合、その付近数十米以内には激しい破壊力を発揮するが遠距離に及ぶことはない)
市街地の中心部上空には大きな茸雲がむくむくと気味悪く上昇していた。
広島は今迄に本格的な空襲や銃撃を一回も受けたことがなく、一同の者が初体験でショックを受け動揺していた。
午前中で部内外の整理、整頓を打ち切り、午後より平常通り勤務するよう処置した。研究部の幹部は数ヶ班に分かれ市内の被害調査を行なうことになった。
その頃、市街の爆心地と思われる方向には暗雲が立ちこめ夕立が起こり、各所に火災が起こり煙は西北方面に拡がっていった。
私は単身自転車で別図のように行動した。練習部を出発した途端、宇品方面に続々と避難して来る被爆者に出会い思わず息を呑んだ。
殆んどの被爆者の上半身は衣服が焼け、裸で皮膚が赤黒く焼きたゞれ、中には浴衣の模様が焼付いている人もあり、頭髪も焼け縮み、顔も赤黒くこげ、特に両手の指の皮膚が肘の方向にバナナの皮をむいた様にはがれ、その皮が痛々しく下方に一〇糎~一五糎も垂れ下り見るも無惨な姿である。両手を拡げ腕を曲げて、トボトボと歩く人達の姿はまるで幽霊を見るようであった。
市街地に到着したのは被爆直後とはいえ、数時間経過していたため、生存者は殆んど逃難しており、市内には人の往来は殆んどなく、死の街そのものであった。路上や西練兵場には多くの死体が散在していた。相生橋に到着。巨大で頑強に造られていた橋が大きく変形して凹んでいた。巨大な圧力を受けたものと思われる。この上空が爆心だ!と直感した。(其の後の調査で数百米離れた島病院上空五六五米で炸裂となっている)橋を渡り左折して本川の左岸へと進んだ。この付近一帯は見るも無惨の極みで地獄図そのものであった。
当日この付近一帯の防火区域整理作業のため動員されていた女学校の生徒達が、作業を開始したと同時頃被爆し全員が即死したのである。この付近一帯の道路及びその両側、川の中まで、焼けて半裸になった死体が累々と山をなし悲惨な有様であった。特に道路から十米位のところにあった防火用水槽(畳四畳位)に二〇名近くの生徒達が、立ったまゝ押し合う様な形で一団となって死んでおり、思わず涙したのであった。水槽の中の一人が両手を挙げ万才をする様な格好で死んでいたが、他の人と異なり全身が血の様な朱色に焼けていたのは何故だろうか未だに疑問である。
再度相生橋を渡り、中国軍管区司令部に向った。幼年学校以来、長年見慣れた広島のシンボル鯉城の姿が全く無く見当もつかない。城は無惨な状態で崩壊してしまったのだった。司令部では多くの人達が火傷を負っていたが、案外元気で生々しい被爆体験をいろいろと話してくれた。報告や連絡を済ませ帰路につく。
爆心地一帯は焼けるものは瞬時に焼けつくし、こわれるものも徹底的に粉砕されたためか私の行動した時間帯には火災もなく、雷雨もなかった。火災は爆心より少し離れ郊外に多く起こり拡大しているようであった。帰路たまたま堀を隔てた向う側で、膚が白く背の高い一見して米軍の捕虜と判る二名が、太い棒を持った兵隊に追いまくられたゝかれているのを目撃した。
「当然だ!」という敵がい心と、最早逃れることの出来ない捕虜の哀れさとが頭の中で交錯して走った。
練習部に帰ったのは夕刻近くであった。
広島の被爆で殆んど無傷であった宇品の船舶部隊(暁部隊)は広島市内の道路の啓開・難民の救護収容・死者の処置等に全力を尽すことになった。
当時、小型舟艇による船舶特攻隊の教育隊長、斉藤義雄君(陸士同期・現在東友会東村山の会長代行)はいち早く舟艇を総動員し、市の周辺七本の川を逆上って救援作業に従事した。その後死体の焼却や埋葬等に全力を尽し、一時被爆症状も出たが幸に命拾いして今も元気である。当日夜、研究部も爆心に近い芸備銀行(現広島銀行)に移動した。(泊りこみで八月十三日までこゝに勤務)
当日調査した結果爆心地・爆発の高度等について報告書を提出した。
それは市内一帯の建物や樹木特に多くの橋の欄干や、石碑や墓石の倒れた方向から爆心を求め、樹木の損傷や、石垣、壁等に焼付いた焼跡からこれ等を総合して算定し一応爆心は商工会議所の上空約五〇〇米と判定した。
報告書作成の資料として写真班に報告を求めたが「何れの原板も全部かぶっており駄目です」と聞き、これは爆弾が炸裂した際に出た放射線の作用によるものだと思った。
広島文理大学に連絡したが検電器を使用して放射能のテストを行っては!とのアドバイスもあったが、その余裕はなかった。
夜遅くアメリカの日本向け短波放送は、「本日アメリカは広島に原子爆弾を投下せり。広島には向う七〇年間草木も生えぬであろう」と放送をくり返していた。
八月七日
大本営発表があり、広島に昨日投下された爆弾は「新型爆弾」であると発表され、従来の防空態勢の強化と若干の注意事項が。
八月八日
新型爆弾調査のため大本営から調査団が派遣され、夕刻広島に到着した。調査団は、我が国で原爆研究の最高の権威者である仁科博士を筆頭とする学者達と数名の参謀であった。その中に陸士同期で更に東大に進み物理学を専攻した新妻中佐が居り、互に奇遇を喜こんだ。
新妻君は爆心地を歩き放射能の土埃が付いたからと、しきりに長靴の土や軍服の埃を打ち払っていたのが印象に残っている。
当時原子爆弾の研究は独乙、アメリカ及び日本で夫々研究されていたが、今次の大戦に出現する事は困難であろうと言われていた。アメリカは資源に恵まれたうえ二〇億ドルという大予算を組み、六〇〇〇人を越える工場の全力をあげて日本に投下する僅か数ヶ月前に、世界初めての原爆実験に成功したのであった。
この日、ソ連は突如日本に対し宣戦布告をして来たのである。
八月九日
早朝よりソ連軍が満洲国に侵攻。
午前十一時二分、長崎市に二発目の原爆が投下された。
八月十日
新型爆弾は原子爆弾であると大本営発表。
八月十四日
アメリカの短波放送は軽快なマーチと共に「日本は遂にポツダムを受諾せり」と、繰り返し放送しつゞけた。
八月十五日
正午、天皇陛下の玉音による終戦詔書の放送により四年余に亘った大東亜戦争は終戦を迎える事になった。
被爆者のその後
八月六日の被爆当日、爆圧・熱線で即死した者、次いで火傷・外傷等で次々と多数の死者が出たが、その後何等の負傷も負わず元気であった人達が、頭髪の脱毛次いで下痢の状態が現われると次々と死亡する人が出来、大きな不安を与へ恐怖を招いたのであった。これが原爆の最もおそろしい原爆症で、原爆の放射能を体内に受けたためである。
練習部が広島陸軍病院宇品分院となり、ここでは無傷のまゝ死亡した人の屍体を解剖し、放射能障害による死亡の調査が行なわれていた。特に許されて屍体の解剖を見学したが、頭部では脳の表面に所々出血の斑点が出来ており、腸の表面にも同様の斑点が見受けられた。何等の外傷がなくても放射線が体内に侵入し作用したのである。目に見えない放射能!これが最も恐ろしいのである。そのおそろしさがようやく世界中の人達に知られるようになったのは近年のことである。
戦争は終っても被爆者にとっては終戦はないのである。死ぬまでは!
原爆の調査・研究
終戦後被爆に対する救援作業は本格化し、京都大学、大阪大学、九州大学等の学者や医療班が続々と集まり治療と共に調査、研究に従事した。
九月には文部省の学術研究会議に「原子爆弾災害調査研究特別委員会」が設置され、また日米合同調査が長崎、広島の調査を開始。
一九四七年にアメリカによるABCC(原爆傷害調査委員会)が発足し、翌年国立予防衛生研究所広島支所がABCCの研究に参加するなど未知の世界の究明が始まったのである。
広島市の復興
終戦後広島を訪れたのは数回に及ぶが、最初広島に行ったのは復員後二年目である。「七〇年間は草木も生えないであろう」というあのアメリカからの放送が気懸りであった。駅を降り、青々と旧の姿に育っている草木を見た時「自然は甦へった」との感動を受けたことは今も忘れ得ない。
被爆当日、常葉橋の橋上には長い軍用貨物列車が転覆し上下線共不通になっていたが、二日後には山陽本線は開通したのである。
また三日目には早くも市電が運転を開始している。
人間の必死の努力は恐ろしいものである。
被爆五十年。当時の悲惨な姿は想像も出来ない。広島は今や人口百十万の近代化の大都市となり繁栄を続けているのである。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
広島で被爆当日の直後から爆心地に入り、調査活動し引続き爆心に近い芸備銀行に約一週間に亘り、泊り込み、救援作業に従事した。戦後も二年間レントゲン技士として病院勤務をした関係で、多量の放射線量を受けており常に心配が絶えない。戦後約三年間、季節的(三月~六月頃)に原因不明の慢性的な下痢の繰り返しで苦しんだ。現在は慢性の胆石、特に耳鳴りとめまいに悩み定期検査の外、常時服薬の治療を継続している。近年時々胃、腸部の変調もあり、発癌のおそれもあるので留意し、専門病院で検診を受けている。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
日本は世界で唯一の原子爆弾の被害国である。原爆を体験し九死に一生を得て、現在被爆者手帳を持つ者が全国で三二万八千六百二九人(朝日新聞調)いる。被爆五〇周年を迎えた今日、老令化が進み平均年令は六十七才に達している。これらの人達は貴重な被爆体験者であり、生き残りの証人である。そして、私達に終戦はない。核兵器の絶滅するまでは!と叫びつゞけているのである。絶大な大量破壊力、焼夷力と同時に強烈な放射線を放出する残虐な兵器はその後益々威力を増し、現在は広島原爆の一、〇〇〇倍の能力を有するに至っている。全世界の核兵器の総数は二万を越え、地球を数十回破壊することが出来る量であると言われている。このまゝ各国の核競争が進めば世界人類の滅亡は必至で、無意味な自殺行為の推進にすぎないと思われる。昨今この恐るべき愚劣な競争にようやく反省自粛が見られ、世界的に核兵器廃絶の方向に進んでいる。これは喜ばしい人間の英知であり、また当然の帰結であるとも考えるのである。吾々被爆者は今後貴重な生き証人として全世界の核兵器の廃滅に努力することが、余生に残された唯一の使命であると考え、声高らかに核兵器の絶滅を叫ぶのである。(被爆五〇周年の日)
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