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未来への伝言 被爆の体験と証言 
檜山 篤司(ひやま あつし) 
性別 男性  被爆時年齢 17歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 三菱重工業㈱広島造船所(広島市江波町[現:広島市中区江波沖町]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
原爆投下時にいた場所と状況
広島市江波町
鍛冶屋町の自宅から三菱造船所に徒歩で行き、着換え中に被爆

一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
学徒動員先の三菱造船所で被爆した。(十七才)幸い外傷なし。被爆後は今朝別れた家族(両親と妹)のことが心配なので、市内の火の海が治った午後、川の中を歩いて自宅の焼跡にたどりついた。川岸には熱さの為や、水を欲しがって飛び込んだまゝの死体が何百人となく横になっていた。爆風で「くの字」になった鉄柱に女子学生が挟まれたまゝ死んでいる姿、前足を突っ張り腰を引いたまゝ鼻の縄を街路樹につながれたまゝの牛など無残な光景ばかりであった。一週間近く焼跡を探し歩いたが家族の姿にはとうとう会えなかった。

二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
焼跡を探し歩いたとき、釘を踏み抜き化膿したが医師が居ないため手術が遅れ、高熱にうなされた。

九月に入って歯茎がはれ出血するようになり、頭髪が抜けはじめ、蚊がさしたところが化膿して人差指が入るくらいの穴が明く状態が続いた。

治療法として青柿のシブが効くとのことなので無理して食べたがシブが口の裏に溜り我慢しても喉を通りにくかった。

三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
家は焼失し、両親と妹を同時に失ったことは、悲しみや苦しみを超え茫然自失の状態であったが、周囲の友人達も同じ環境にあったのでショックは次第に薄らいだ。

その後の人生で苦労に出会ったとき。
  

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