原爆投下時にいた場所と状況
広島市翠町
広島市立第二高等女学校校舎内にて被爆
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
あの日、私は学校の校舎内にいて被爆した。咄嗟に机の下にもぐったのでガラスの破片にやられることもなく、級で無傷は、もう一人の友人と二人だけだった。私の家は爆心地から一キロ以内だったので、家にいた母は家の下敷になり、漸く這い出し、火の手を逃がれて広瀬町にある親戚に向かったが橋が落ちていたので、そのまゝ熱いので川へ入って動けなくなっているところを軍隊に助けられたということだった。九日の朝出会った姉と母をさがしに出て、その夕方、横川新橋のたもとの小屋がけの収容所にいた母を見つけ出した。そこで二人で二日二晩母につきそった。収容所の中に畳一枚に一人づつ寝かされて兵隊さんが見守ってくれた。手当のしようもなく、人々は次々に恋しい人達の名を呼び乍ら死んでいった。十一日、横川駅から汽車に乗って廿日市の母の実家へ行く。十四日、子供たちに心をのこし乍ら、母は遂に死んでいった。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
その年の十月の終り、突然兄が海軍から復員して来た。それまで世話になっていた母の実家を引き払って、田舎にあづけていた妹を引取り、呉線の小屋浦の県営住宅に移り住んだ。兄姉妹と私の四人の生活が始まる。妹を学校にやり、姉と兄は働いた。私は専ら、買出し、まかない係だった。近所の主婦に連れられて農家に買出しに行き、品物を持たないものに農家は冷たかった。芋釜に一ぱい芋をかこっていても売ってくれなかった。それでもたまに分けてもらうと、今度は警察の目を逃れるのに必死だった。そんな身の細る思いの日々を繰返し、家族を食べさせる為に夢中で出かけた。生活は苦しかったが、親戚を頼ることは絶対にしなかった。彼らは頼られるのを恐れて敬遠していたから。一生けんめいやっても貧しくて、悲しくて、さびしくて、小屋浦の海にとび込んで死のうと言った時、姉が必死で止めた。あの時姉が止めなかったら、今の私はなかったかも知れない。病気らしい病気もなく今まで大きな力に支えられて生かされて来たことをしみじみ思う。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
沢山の犠牲者の上に私共は今を生かされて今日までやってこられた。
何の罪もない、多くの人々に、国は何の保障もしない。あの戦争があったばかりに、たった一人の母も亡くした。そして戦後は苦しく、死にもの狂いで生きて来た。それは筆舌につくしがたい。国は等しく受忍せよといわれるのだろうか。悔んでも悔みきれないあの頃を思うとき胸が張りさけそうである。体の不調は薬に頼り乍ら、核兵器廃絶、被爆者援護法を願って運動に参加して来た。もう私共に残された時間は、そう長くはないと自認している。一日も早い実現を心から願って止まない。
|