原爆投下時にいた場所と状況
広島市南観音町昭和新開
三菱造船社宅隣接の分校二階
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
昭和二〇年八月六日、午前八時一五分一瞬強烈な原色の鋭い閃光が視界を塞ぎました。そのとき私は、広島市南観音町昭和新開三菱造船社宅隣接の分校二階で授業が始まるのを待つ間、足の爪を切っていました。教室の生徒達はいっせいにワッーキャア…声にならない恐怖にかられ、われ先に廊下へ逃れ出ました。私が気がついたとき、走る方向とは逆を向き四つんばいになって、口でナムアミダブツを繰り返えしていました。木造二階建校舎は倒壊し大きな梁が頭の上で人の字に折れ重なっていました。その場からやっと抜け出し階段の方へ走りました。階段は折れ曲り窓ガラスの破片が散乱し窓枠が幾重にも重なっていました。窓枠の薄いガラスの上を割れないで…と思いながら素足で跳ぶように走りました。その下には学友が倒れており動きませんでした。私は右前頭部一ヶ所、右耳後一ヶ所、右足臑一ヶ所、左足膝一ヶ所にガラスが刺り負傷しました。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
被爆後広島から長崎へ帰りました。一時父の実弟宅にお世話になり、次いで母の実家に身を寄せ、近くに家を借りて開墾しました。イモや野菜を収穫して農業に励みました。長崎も九日に被爆しましたので親戚の娘さん(後に小学校の先生)が髪の毛が脱けてかわいそうでしたが、みんなでいたわり励ましていました。白血病や被爆の影響による発病をみんなが恐れ、畠仕事の合間に山に入ってげんのしょうこ(薬草)をとり陰干して、せんじて飲みました。私も後年結婚して娘が生れましたが、成長していく娘を見守りながら不安でした。どこからともなくおおいかぶさる不安。それは自分が被爆者であるからです。娘は大丈夫か自分は大丈夫かの不安はついてまわります。会社で行う定期健康診断にも最近は特に気をつけるようになりました。娘が三〇才になったとき、初めて私が被爆者であることを話し当時の状況も話しました。その娘は今ニューヨークに居るのです。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
ピカドンがもたらした大量の殺戮は、戦争が引き出した簡単な答えでした。私達は身をもって悲惨と餓を求めもしないのに体験してしまいました。あの日の鋭い閃光は私達に不幸と不安を焼きつけました。それは被爆者に五〇年たっても新鮮な尾を引いています。
被爆者は弱者の立場だと思います。人に言えない胸のうちのハンデは当人でないとわからないと思います。今年は実兄(原爆死)の五〇回忌でした。父母も実兄の死を悲しみましたが、もうこの世には居ません。当時九才の私も高齢者の仲間入りに近づきました。終戦で戦争が終っても内容は終っていないのです。戦争をしてはいけない。原爆の製造や使用があってはならない。一瞬の閃光と爆発が悲惨と不幸をまき散らすのを絶対に許してはなりません。
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