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私の原爆 
広川 日出子(ひろかわ ひでこ) 
性別 女性  被爆時年齢 6歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2015年 
被爆場所 広島駅前郵便局(広島市松原町) 
被爆時職業 乳幼児  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
昭和二十年八月六日、六歳で被爆しました。其の朝は抜けるような青空、真夏の太陽はじりじりと暑く、あの頃は蝉も多くさんおり激しく鳴いておりました。暑さと喧(やか)ましさでよけい暑苦しい朝でした。

私は赤い鼻緒の下駄を、お盆に履くようにと買ってもらっていたのですが、その日早く履きたく、母にねだり仕事に就いて行く事になり、嬉しくって、嬉しくって、飛び上り下駄の音を立てながら家(うち)を出ました。

当時、母は郵便局の配達員をして、兄二人と私の三人の子供の生活を支えてくれていました。父は私が二歳の時病死。

家を出る時は一度空襲警報は有りましたが、解除されておりました。

戦前の郵便局では八時、朝礼が有り、「海ゆかば」と言う歌を唄って母達は出発します。

私は一人で近くのお寺の託児所に行くと言って、局の階段を四・五段下りた所で、凄まじい閃光がピカッと鋭い光と地響きがし、目の前が真暗になり、私は意識を失いました。どれだけ時が過ぎたのか分りませんが、気が付くと瓦礫の下敷になり、身動きも出来ない状態で、何が起きたのか、煙と埃と、あちこち火が燃えて、私は血だらけで怪我をしており、その時の痛さはあまりおぼえていませんが、怖さで、ただお母ちゃんお母ちゃんと泣き叫んでおりました。

あの時の様子は、火の手と、家は崩れ瓦礫と埃の中、人々は茫然と虚ろな顔で、火傷をし皮膚が垂れ下っている人、怪我をしてうずくまっている人、子供を抱き泣き叫ぶ人、誰かを捜している人、大八車に荷物を乗せ逃げる人、皆んなぼろぼろの姿で右往左往と混乱していました。

私は瓦礫の中から警防団の救助隊の方に助け出され、トラックに乗せられて或お寺に連れて行かれました。

お寺では近所のおばさん方の炊き出しのおにぎりを頂き過ごしておりました。

寺の中は収容者であふれかえり、呻き声、水を水を下さいと叫ぶ人、手や足を損傷している人、皮膚が水ぶくれで垂下り、髪の毛が抜け、又眼を損傷している人、亡くなる方も多くさんおり、暑い時なので凄い異臭が漂よって、方々血だらけです。

地獄絵図とはこんな事を言うのでしょうか。私は頭部に怪我をし陥没骨折で深い傷でした。額と足にはガラスの破片が入っている怪我もあり、手当はして頂きましたが、薬と言えば赤チンと血止めぐらいです。

暑い最中でしたので傷口にはハエが追っても追っても黒くなるほど止り、何方(どなた)の人にも蛆が無数に蠢(うご)いていました。

私もその一人で、ガーゼに膿と蛆と血が固まり治療は痛く辛いものでした。

そして、どうしてこんな所にいるのか、私は誰なのか、名前すら分らず、記憶喪失だったのです。

数日が過ぎたある日の事、知らない夫婦がやって来て誰かと話をしているようでした。しばらくして、知らない家に連れて行かれ、今日から家(うち)の子供だと言われ、其の家(うち)は少し年上の男子がおりました。その人達はいきなり、お父さんお母さんと呼ぶように言われ、私は何も分らないまま従いその家で生活をする事になり、お父さんと言う人は子煩悩な人、優しく、お母さんは厳しく怖い感じで仲々馴染ませんで良く怒られました。

あの頃はお便所が暗く、長い廊下を歩くのは戦争で傷付き亡くなった方の形相が目に浮びお化けが出るように思い、寝小便をして叱られた事もありました。

この家(うち)は実子はおられませんで、甥に当る親戚の子供さんを養子にしておられたのです。怪我をしていた私はもちろん、お医者さんに連れて行かれ治療をして頂きました。ガーゼ交換のたびに痛くて痛くて大泣をした覚えもあります。今まで箸など持った事がなく、スプーンで用が足りていました。

ここでは銀飯を頂き御馳走も多くさんありました。

お箸の持ち方をいくらやっても出来ず、たたかれたり、抓(つね)られたりして正常に使えるようになりました。

でも自分は誰なのか、何処から来たのか過去の事は思い出せません。

家も違う、親も違うと言う事は少し分って来ました。名前も思い出せないまま傷が癒えたのは一ケ月以上掛りました。

痛い目や怖い目にも合いましたが今考えると幸運だったと思います。

裏には川が有り、沢蟹を取ったり、飯事(ままごと)をして遊びました。

お父さんと言う方は、あの頃石炭の売買の仕事をしておられ、貨物船を持っておられ、夏は泊まり掛けで海水浴に行き、飯盒で炊くご飯は格別美味しく頂きました。

秋には松茸狩を親戚一同で行き、寝小便の薬にニワトリの鶏冠(とさか)が良いと言って焼いて食べさせてくれ、親も心を配ってくれていました。年が変った頃には少しづつ記憶が戻っており、自分の家の間取、部屋の数とか、神棚があのあたりにあるとか、でも誰にも言えませんでした。

春になり小学校一年生になるので赤いランドセルを買ってもらい、お母さんと入学式に行き、やはり嬉しかった事。でも年上の兄は、私はよそ者であったようで嫉妬され良く陰で苛めに合い、何時も外で暗くなるまで遊んでいました。

やっと家や学校にも慣れ、初夏の頃、私の意志ではない不思議な事が起きました。

ある老人がやって来て、私はまるで品物のように、自転車の荷台に乗せられ、可愛いがってもらいなさいよと言われ、知らない家に連れて行かれ、まったく何処か分りません。

心細く、寂しく、どうしようもないままその家に入りました。

そこは老夫婦だけで、ここでも親子として生活をする事になり、その家(うち)はブリキ屋で屋根の樋など作る仕事をしていました。

裏庭に真赤なカンナの花が多くさん咲いていました。まるで火が燃え盛っているようで想像して寂しく、悲しく、心の傷は癒えず、本当の母に会いたいと思いました。冬は雪が膝下まで有り、学校は遠く二年生でしたが大変で、又途中転校生でしたので私は頭の怪我で髪の毛が無くクラスの皆んなは変な顔で見られ迚(とて)も否(いや)でした。

家の裏手の方に鉄道の線路が有り、今は無くなりました可部線ではないかと思います。

私の記憶はほぼ戻っており、意を決して親に私の母は駅前の郵便局に勤めていた事を話し、すると親は消息だけでも調べてみようと言ってくれました。

戦時中はB29が朝と言わず、夜と言わず物凄い爆音でやって来、寝巻など着てゆっくり休む事はありませんでした。

或日の事、一升瓶を逆さにしたような銀色の焼夷弾が無数に飛んで落ちて来ます。

私共親子はどこに落ちるのか防空壕の中で耳を塞いで息を殺し、怖くて震えておりました。その爆弾が五〇メートル先の家に落ちて吹き飛び大きな穴が空き、その家のおばさんは道路の真中に埋り永い事見付かりませんでした。

夜間に艦載機やB29が青や赤のサーチライトを点滅しながら、凄まじい爆音で飛ぶのは無気味で、戦争が終わっても飛行機が通ると耳をふさぎ恐ろしかったです。

食糧は配給制で、食べる物は少なく、十二歳、十歳の兄と六歳の私です。三人の食べ盛りの子供を抱え母は大変苦労をしました。

食事は雑炊が主食で、お米はお茶碗の底に少しで浮いているよう。あとは麦とか草、お芋など入っている時は御馳走の内。脱脂大豆、糠ダンゴ、高粱(こうりゃん)、丸麦、芋の粉、食べれる草は色々食べました。皆んな空腹(ひもじい)毎日です。配給の日が来ると、嬉しくって長い列を母と並びました。お米は一人何合と決っていて、芋や小麦粉、塩、砂糖など無く、サッカリンを使って蒸しパンなど作ってくれた時など嬉しかったものです。

雪がちらちらする寒い日、一人の女の人が尋ねて来ました。私は何となく顔を見て親しみのある懐しいような、ちょっと照れくさい気持で、障子の裏に隠れたり、覗いたりしていました。あんたの本当のお母ちゃんが来たんよ、早うこっちにおいでと言ってくれ、照れながら二人の母を見つめながら、生みの親の膝に座りました。親同士は泣きながら色々と話をしており、私はその時、母の膝の温もりと懐かしさ嬉しさで、こんどはしっかりとしがみ付き泣きじゃくりました。

育ての親にも少しは情が移っておりましたので複雑な気持になりました。母ちゃんは、お兄ちゃん達が家で待っているよと言った時、早く会いたいと言う気持で胸がいっぱいになりました。

育ての親はもう少し泊って帰るようにと言ってくれましたが、帰る事になり、可部駅まで送って下さいました。列車に乗る、引きずり下される、又乗ると言うような両方複雑な辛い別れになりました。

冬の日は短く暗く、私は帰りたいばっかりでした。外は牡丹雪が車窓に見え、町の明りを眺めながら広島駅に到着致しました。

家族にやっと巡り合う事が出来、行方不明から再会出来たのは二年近くだったそうです。

兄達は学童疎開で無事。

一方母は、二葉の里と言う所で被爆をし、顔や腕、上半身火傷を。ピカッと衝撃的な閃光が走り眼の前が真暗になり、音の無い無風状態でボーとしていたそうです。気が付くと火傷をしている事に気付いたそうで、爆風で建物は崩れ、あちこち火の海で顔は煤け、黒焦げで倒れている人、衣服はぼろぼろで、皮膚は垂れ下り、死体も多くさん転っていたそうです。自分も可成りの火傷で何もする事も出来ず、惨たらしい場景を見ながら、どのようにして家に辿り着いたか分らなかったそうで、道々その家の母親であろう壊れた瓦礫の中から這出て、死んでいる子供を抱き助けて下さい、この子を助けて下さいと叫んでいる声が耳に付き、しばらく忘れられなかったそうです。

母は怪我が酷く、寝込んで体が動ける状態ではなかったようで、娘の事が気になりながらも・・・・・近所にいらした局長さんに私を探して下さるようお願いしたそうです。

母も体が良くなった頃、名前を頼りに探し歩いたそうです。

私の家(うち)は東区丸山町で、尾長小学校に再入学し、近くには東練兵場が有り、馬や牛、人骨を集め山のようにして、しばらく来る日もくる日も焼く煙が出ておりました。

学校では、ピカドンとか禿とか言われ苛めにもあい、又、三・四年生の頃、年に一回授業中に呼び出され、クラス皆の視線を浴びながらジープに乗せられ、比治山の元ABCCと言う放射線研究所が有りました所に連れて行かれ、検査用の衣服に着替え、パンツも脱いだ状態で色々頭から足の先まで調べられて、原爆を落したアメリカ人の研究者も多くさんいました。私はまるでモルモットにされたような気がし腹立たしく、何で私だけ、こんな嫌な目に合わなければいけないのかとその時戦争を恨みました。

なぜか体が弱く、一時期栄養不良と言われた事も、運動は羨ましく眺めていた事もしばしば有り、中三の後半に到頭(とうとう)結核になり、半年宇品の岡田サナトリュームと言う病院へ入院する羽目になりました。その頃、病院はベッドは有りましたが、布団は家から持って行かなければならない時代でした。母が布団を背負って来てくれた時は本当に涙が出ました。母も体は丈夫ではなく良く病気をしていました。大層心配を掛け申し訳ない思いです。

戦後は、親を亡くした子供達は、生きる為に逞しく靴磨や拾って来た物などを売り、大人達は露店を張り、闇市が出来、人・人で溢れかえっておりました。

広島は一瞬にして焦土となり、それぞれの人生が変り。原爆に遭った者は嫁にも行けんと噂が流れました。

私は数奇な運命に翻弄されましたが、本当の親に巡り合えた事は何物にも替え難く神様に感謝です。

今でも追い掛けられたり、殺されそうになる夢を見る事があります。

七〇年を振り返り、やっと自分の過去を見つめる気持になりました。

今日(こんにち)、原爆が落ちたのすら分らない世代が多くなり、何でも買ったり、食べたり出来、幸せです。腹が減る、食べる物が無いことがどんなに辛いか想像してみて下さい。悲惨な戦争が二度と起きない事を願っております。

                      広川 日出子
  

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