父はあの年の七月末召集令状を受け取った。それには八月二日白島町の工兵隊に入隊するようにとあった。日時が迫っているので急遽会社の方に届け出て入隊の支度をした。八月末出産を控えた妻のこともあるし五人の子供を残して行かねばならぬ父の心はどんなだっただろうかと思うもう生きて帰れぬかも知れないのだ。いろんな事が胸の中を過ったことだろう。八月二日には皆の万歳の声に送られて彼は勇ましく出征していった。そうやって工兵隊に入隊したのだった。翌日の夕方のことだった。父の知人が尋ねて来てくれた。父は三篠の分隊に配属されている。との伝言を伝えに来てくれたのだ。その人は以前父と同じ会社で働いていた人で父を覚えていて下さったので家まで知らせに来てくださったのだ。今はこの分隊で賄いをしていると話して居られた。母は次の日麦飯のおにぎりを持って父に面会に行った。面会所でしばらく待っていると父がものすごく渋い顔をしてやって来た。あの時はうれしくて頬が緩みそうになるので引き締めるのに苦労したと後で話していた。母が持って来た握り飯を上官や門衛に配ってようやく一つほうばって「皆元気か。」と尋ねたそうだ。「ええ、元気ですよ」と返事をするとほっとしたように「そうか、」と言った。母は「お食事は?」と尋ねるとポケットから新聞紙を切ったのを出して見せ「これに茹でたじゃが芋がふた切れと竹を切ったコップに水だけだ」と言った。紙はトイレ用に大事にしまっていた。だから皆には久し振りのご飯だったらしい。銃も剣も食器も無い新兵だったのだ。「自分たちは無手勝つ流だ」と粋がっていたのだ。母はすぐ帰った。お互い無事を確認したのだ。
六日の朝もいつものように自分たちの息子のように若い上官にいろいろ教えてもらっていた。その時B29が飛来して来た。はっとした時ものすごい稲光と轟音と熱風が来て窓ガラスが粉々になって吹き込んできた。窓際の人はガラスがささって怪我をした。父は「あつっ」と言って手をやると耳の後ろに小さな傷があった。校舎はがくっと傾いた、上官の指示で校庭に整列した。少し遅れて一人よたよたと寄って来た誰かが「員数外が来よる」と言った。すると彼は「○○隊の○○です」と答えた。爆風のせいか顔が浮腫んで人相が変わってしまっていた。その人を皆で助けて列に加えた。並んで暫らく待っていた。父はとにかく食料が無くてはどうにもならん。と考えて食糧庫に行って缶詰めの箱を抱えられるだけ担ぎ出してきた。けれども少し行進したら重くて歩くことが出来なくて近くの民家に置かしてもらった。そこを後で探したけど見つからなかった。と話していた。それを聞いた母が食糧のないとき兵隊さんが缶詰めを箱ごとごっそり置いていってくれたんだからその兵隊さんは神様か天使に見えたことでしょうね。と言っていた。父は土手で少し休んでいた。そこへ近所のおばさんがとうりかかられた。呼び止めて「とにかく生きていることを家族に知らせてください」と言っておいた。おばさんは「寅雄さん、まあご無事で」と喜んで下さった。その後傷病兵と元気な兵隊に分けられ傷病兵は田舎の学校へ収容されることになった。父たちはトラックに乗せられて可部の方へ向かって走った。話では亀山に行くらしい、八木を通るとき八木峠の友人宅の前を通る。父は「亀山へ行く 田川寅雄」と手帳に書いて紙一枚ちぎって鉛筆にくるんで友人宅に投げた。トラックは太田川橋を通って可部へ行った。亀山へ行ったがそこは満員で三入へ行くことになった。父たちを乗せたトラックは又可部を通って三入へ走った。途中可部の外れの友人宅の前を通るので「三入に行く 田川寅雄」と手帳に書いて友人宅の土間に投げ込んだちょうど昼食を食べていた友人の目の前に飛び込んできたので急いで拾って自転車で私の家まで届けて下さった。それが我が家に届いた一番初めの知らせだった。次に八木峠の手帳の切れ端が届いた。うちで面会に行く支度をしている所へ隣のおばさんが父の無事を知らせてくださった。母は亀山へ私は父が休んでいた土手へ行くことになった。母も私も父に逢えず帰ってきた。翌日私が三入に行くことになった。父は家族が尋ねて来てくれると待ったがとうとう日が暮れてしまった。翌日私が来てくれてうれしかった。と言った。私が持って行った、梅干を口に入れて思わず、「家へ帰りたい」と言った。兵隊の身ではそれは叶わぬ願いだ。私の顔をみたらつい口からでてしまった言葉だ。熱もあって顔もむくんで別人のようになっていた。苦しそうに横になっていた。毎日私は父の元へ通った。父の世話をしてあげた。他の兵隊さんもお世話をしてあげた。それでも次々亡くなられた。一度お酒を持って行った。おいしいお茶と言って飲ませた。こんなおいしいお茶は初めて飲んだ。と喜ばれた。梅干も分けて食べた。毎日来てくれる私を皆楽しみに待ってくれていた。そして終戦、父は帰宅を許された。翌日父は帰ってきた。
婦人会から配られたわらぞうりを履いて、腰に手拭いを下げて、カーキ色の半そで、兵隊ズボン、頭に三角巾、と言う姿で帰ってきた。私が出かける支度をしている時「あっお父ちゃんだ」「お帰りなさい」と言う家族の声に迎えられ我が家の敷居をまたいだ。
半月振りの我が家だ。柔らかい布団に横になった。夢にも思わなかった帰宅に終戦を感謝せずにはおれなかった。それから家で養生をする毎日がはじまった。用便だけ起きてあとは寝たきりだった。母は父の傷を見て吐いた。匂いもひどく父の世話は娘の私の仕事になった。そのうち座って食事など出来るようになった。そして九月のはじめごろ待望の娘が生まれた。男の子が四人のあとだったから父の喜びようはこの上ないものだった。それからは父のあぐらにはきまって小さい娘がいた。父は目を細めて眺めていた。あくびをしたとか、自分をみたとか、そのうち声をだしたとか笑ったとか、目に入れても痛くないのではないかと思うほど可愛がっていた。ところが翌年誕生日前に急病で一晩泣き明し医者も病名もわからぬまま息を引き取った。皆の悲しみはひととうりではなかった。特に父は声を上げて泣いた。その父も元気になってきた。父は念願の商売をはじめた。大事な娘が亡くなって翌年又娘がうまれた。その娘もいつもあぐらに入れて眺めていた。そして何時もきまって「死ぬなよ」と言い聞かせていた。娘も判る様になると「ウン」と返事をするようになった。父は相好をくずして喜んでいた。そうやってとても大事に大事に育てていた。そんなある日父は原爆症を発症した。医者は「これは原爆の所為なんですけどそうすると米国関係からうるさいので結核にしておきます。」と言った。それから父の闘病がはじまった。六人の子供と病気の夫を抱え母は頑張ったが、父は日に日に弱っていった。見当違いの治療で良くなるはずもなく、まだ四十二歳の働き盛りのはずなのに最愛の娘の花嫁姿を見ることもなく六人の子供と丈夫でない妻に心を残し乍「お父ちゃん」と泣き叫ぶ家族の声を聞きながらさびしくこの世を去っていった。被爆者と認定されることもなく。平和公園に名前を入れてもらうこともなく。世の片隅で静かにいってしまった。
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