第一章 故郷の景色
広島市郊外の安佐郡八木村。東には太田川が流れ、西には山々が連なる、それは美しい所です。川には三尺もあろうかと思われる鯉が泳ぎ、夏には鮎をはじめ、うなぎ、えび、かに、ふな、はやが獲れました。山には、春の頃には、ぜんまい、わらび、ふきが育ち、秋には松茸、栗や柿が実りました。
小川にはめだかやどじょうが泳ぎ、川底の砂地にはしじみが、田にはたにしが棲んでいました。
春のれんげ畑の美しさはそれは格別で、子供たちの遊び場になりました。れんげは花の季節を終わると、耕されて肥やしに姿を変えました。菜の花もまた畑を黄色一面に彩り、良い香りを放ちました。菜の花からは菜種油が採れました。
そこは四季を通じて豊かな自然に恵まれた、勝くんの故郷でした。
第二章 戦局悪化
勝くんのお父さんは兵隊さんでした。家ではお祖母さん、お母さん、そして一人っ子の勝くんの三人が銃後(父の留守)を守っていました。勝くんはお祖母さんとお母さんの田畑の仕事をよく手伝いました。良い跡取りに恵まれた、と評判の一人息子だったのです。
勝くんは学校でも人気者でした。たとえば「お日さまにこにこ、声かけた、声かけた」という「杉の子」の歌では、ひしゃくで肥やしをかける手まねをしながら「肥え、かけた、肥え、かけた」と歌って皆を笑わせたものでした。
校内放送の「大本営発表・・・」は、勝くんの手にかかると「えー、大根の葉っぱ」となりました。その後で「腹へったあ」と勝くんが言うと、食糧難の時ですから、皆はしゅんとしてしまいました。それでもすぐに「欲しがりません!勝つまでは」と元気を出して、勝くんたちは健気に頑張っていました。
やがて勝くんは六年生になりました。皆、広島市内の中学や女学校に憧れていました。しかし、校長先生はこう言いました。「男子は市内しか中学がないから仕方がないが、市内には空襲がある。女子は市内に出てはいけない」
女子はしぶしぶ郊外の女学校に行きましたが、勝くんは市内の中学へと進学して行きました。そして、校長先生のそのお達しが、女子と男子のその後の運命を分けることになったのです。
勝くんが中学生になってしばらくすると、静かだった八木村にも、警報のサイレンが鳴るようになりました。村よりもさらに酷い状況の市内からは、人々が流れ込むように疎開して来ました。
疎開者は土地の者にことわらずに山に入り栗を拾いました。すると勝手にとるな、と責められます。しかし、疎開者は下に落ちた栗を拾っただけだと言い張ります。
土地の者と疎開者の間に、たびたびもめ事が起こるようになり、のどかだった村の人々の心もとげとげしくなっていきました。やがて、すいか泥棒を見張る小屋ができたり、見張り番自ら盗みを働くようにまでなりました。
上空にはB29が旋回するようになっていました。それまで、国防婦人会が組織され、毎日竹槍やバケツリレーの練習をしていましたが、本当に空に向って竹槍を突くようなことになるとは思ってもいませんでした。皆の心が切迫していました。
市内の中学へ通う勝くんは、かばんを斜め十字に両肩にかけ、片方には救急用具、そしてもう片方には筆記用具を入れていました。学生服が良く似合って、中学生らしく颯爽としていました。その姿はまるで小さな兵隊さんのようで、行き交う人に「おはようございます」、「今、戻りました」と礼儀正しく挨拶して通ったものです。物のない時代ですから、立派な息子の学生服姿を写真に留めることができなかったのが、お母さんの心残りとなりました。
夏になっても勝くんたちには夏休みはなく、土曜も日曜もなく働きました。一週間は、当時、月月火水木金金と言われていた時代です。
中学でも少し勉強するだけで残りの時間はすべて勤労奉仕に費やされました。勝くんたちの作業は、市内の空き室になった疎開後の家屋の解体作業でした。街の家を取り壊して原っぱにしておけば、空襲の被害を最小限に食い止めることができるということが、作業の理由のようでした。
第三章 閃光
八月六日、この日もいつものように、太陽がじりじりと照りつけていました。早朝、勝くんは、お祖母と母さんに「行きます」と敬礼をして、市内へと出かけて行きました。その頃は、毎日が命懸けでしたから、帰って来れないかもしれないと覚悟して出かけたものです。
勝くんを送り出した後、お祖母さんとお母さんは田畑の仕事に精を出していました。いつもと変わらぬ日常でした。
その日の朝も警報サイレンが鳴り、B29が村の上空を飛行して行きました。ほどなくして解除のサイレンが鳴り、人々がほっとしたのもつかの間、またB29が飛んできました。
「近ごろは以前にも増してB29がよう来るようになった」。村の人たちは不安を隠しきれませんでした。
アメリカの飛行機か、日本の飛行機かは、プロペラの音で判別することができました。金属製のキーンと響くアメリカの飛行機と違って、日本の飛行機は木の音がしたからです。
勝くんたちも、その日は防空壕に一旦避難したものの、解除になったため、引率の先生に連れられて作業に出かけました。
「今日も暑くなりそうだけど、戦地の兵隊さんのことを思えば頑張らんといけん」皆、思いは同じでした。その時、B29が上空を旋回しました。ぎょっとして勝くんたちは顔を見合わせました。
村では、お母さんたちが田んぼに戻って働いていました。その時、百の稲妻が一度に光ったのかと思うほど、強い閃光が周囲を照らしました。お祖母さんとお母さんは仕事の手を止め、光の方を見ました。光に続くように、爆弾千個分かと思われるほどの轟音がとどろき、熱風が走り抜けました。
「さっきのB29が爆弾を落としたにちがいない」お母さんは確信しました。
遠方に紅黒い炎と煙が立ち上がっています。それはやがて巨大なキノコの形になりました。
広島に大きな爆弾が落ちたとラジオで言っていた、と隣の人が知らせてくれました。一大事です。
「広島に?勝が!」お母さんはそう叫ぶと、鍬を放り出して走り出しました。そして、お母さんは市内に向ってひたすら走り続けました。
第四章 地獄絵
どれくらい走ったでしょう。反対方向からは、よろけるようにしてたくさんの人たちがやって来ます。頭から血を流している人、手がもげた人、顔や体を血だらけにした人、地獄絵を見ているようでした。
そして街の方からは今まで嗅いだことのような、胸が悪くなるような悪臭が漂ってきます。市内に近づくと、全身が黒く焼けただれた人が大勢目に入ってきました。黒くなって男女の区別もつきません。着ていた物が千切れて体からぶら下がっています。そんな人たちが何百何千、いやもっと多く、街から逃げ出そうと苦しみながら移動していました。
お母さんは人の波をかき分けながら「マサルーッ、マサルーッ」と声を限りに息子の名を呼び続けました。
逃げている途中で力尽きて、行き倒れている人が目に入りました。「オバサン・・・タスケテ」と助けを求める声に我に返り、その人を抱き上げようとすると皮がずるっと剥けて赤身が出ました。目を覆いたくなるような姿でした。それでもその人はすがりついてきます。もう立つことも歩くこともできないのに、とにかく生きようと最後の力を振り絞っているのです。助かりたいのです。そんな人たちがそこにもここにもうめき声をあげながら、生死の境を彷徨っていました。
勝くんもどこかでこんな姿になっているかもしれない。そう思うと、お母さんは気が狂いそうになります。それでも生きていてほしい、祈るような気持ちで、息子の姿を探し続けました。
家々はつぶれ、火の手が上がっています。ビルディングも焼け崩れ、鉄骨が溶けて飴細工のようにぐにゃりと曲がっています。爆風で切れたお腹から飛び出て、それでもくねくねと動いている腸を、両手で抱えるようにしている人もいました。熱風が吹き続け、息をするのも苦しい中、人々は次々と川へ飛び込んで行きます。想像を絶する光景がどこまでも広がっていました。
何時間経ったかわかりません。市内をいくら探し回っても、息子の消息をつかむことはできませんでした。もしかしたら行き違いに家に戻ったのかもしれない、お母さんはふとそう思い、今度は来た道を急いで引き返しました。
第五章 行方
家にたどり着くと、戸口にお祖母さんが立っていました。「勝は?」とお祖母さんに尋ねてみましたが、無駄でした。お祖母さんは孫を連れずに一人で戻ってきた嫁を見て、がっくりと肩を落としました。
焼けた草履を引きずりながら、全身黒くすすけて帰ってきたお母さんは、お祖母さんにその日見てきたことを問わず語りに話しました。
「何とむごいの、地獄じゃ」
お祖母さんはぽつりとそう言いました。
その夜、「明日はきっと勝を探しだして連れて帰ろう」、心に誓ってお母さんは横になりました。ところがうとうとしかけた頃、「お母さん!痛いよ!助けて!」と泣き叫ぶ勝くんの声で目が覚めました。もう居ても立ってもいられません。
夜が明けきらないうちに家を出ました。道には昨日よりさらにたくさんの人々が倒れていました。消防隊や兵隊が倒れている人に名札をつけて、死者と負傷者とに分けてトラックで運んで行きました。
未だくすぶっている市内に入ると、黒焦げの死体が辺り一面に転がっています。川端に来ました。灼熱に耐えきらず川に入った人たちがそのまま亡くなったのか、何百の死体が川面に浮かんでいます。
お母さんは声をからして息子の名を呼び続けました。さらに翌日も探し続けましたが、息子の行方をつかむことができませんでした。「あの酷い街の中のどこか片隅で、誰にも助けてもらえず、たった一人で私のことを待ち続けているに違いない」。お母さんは泣きながら、息子の姿を探してさまよいました。
その折りも折り、毎日、勝くんを作業に引率していた先生が帰宅したことを聞かされました。さっそく訪ねて行くと、同じ思いの何人もの父兄が、先生を取り囲んでいました。先生は布団の上に座って頭をたれていました。生徒を探したけれども一人も見つけることはできなかったそうです。先生自身も担架で運ばれて帰宅したということでした。
父兄の一人が堪え切れずに「先生、うちの子はどうなっとるかわからんのじゃ。もしかしたら死んどるかもしれん。じゃがの、親として葬式もしてやれんのじゃ。先生は死んでも、ちゃんと葬式をしてもらえるんじゃ。わかりますかの」と訴えました。
先生は目を伏せて黙ったままでした。引率者としては子供たちに何もしてあげることができなかった、あの朝の突然の出来事。先生の髪は抜け落ち、味覚もなくなっているということでした。そして、親たちに囲まれて責められた数日後、先生は亡くなりました。あの世で生徒たちに再会することはできたでしょうか。
人々はその頃、原爆の存在を知るはずもありません。ピカッと光ってドーンと落ちたので、誰が言いだしたわけでなく、「ピカドン」と呼ばれるようになりました。
外面は無傷で帰宅した人も、火傷を負った人も、その後等しく毛が抜け落ち、味覚を失う深刻な後遺症に襲われることになります。皆は口々に「ピカドンのガスを吸ったから、やっぱりだめだったのか」と話すようになりました。原爆症です。
今は元気でも明日、症状が表れるかもしれない。人々は言い知れぬ不安を抱え、日々を過ごしていたのでした。そして、あの地獄をくぐり抜けて生還した人々は、原爆症だけでなく深い心の傷を抱えることになりました。
第六章 父帰る
そして八月十五日、終戦を迎えました。もう、サイレンに脅えなくてもいいのです。しかし、勝くんのお母さんは今日も、息子を探し求めて被災者の施設を歩き回っていました。しかし、原爆投下の日以来、息子の消息は途絶えたままでした。
やがて、戦地から復員した人々が、昔のように田畑の仕事に戻って働くようになりました。村では家族をピカドンで亡くした人々が、悲しみを分け合い、互いに労わるように暮らしていました。
お母さんとお祖母さんは、終戦を迎えても、いつ勝くんがどこからか帰ってくるかもわからないと、かすかな望みを捨てきれずにいました。「今、戻りました」と、敬礼して家の前に立つかもしれない、そう願いながら毎日を送っていました。
そんなある日、家々に灯がともる頃、お父さんが復員してきました。駅に降り立ち小走りに家路に急ぐと、角を曲がって家が見えるか見えないかするうちに、「おーい、勝。おーい、帰ったぞ」と叫びました。しかし、お父さんの声を聞いた勝くんが、家から走り出して来ることはありませんでした。異様に静まり返った我が家の敷居をまたいだ時、お父さんの胸にはどのような思いが去来したのでしょうか。
勝くんの行方は杳として知れないまま、あの日からもうすぐ六〇年目を迎えようとしています。
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