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姉への思い 
向井 唯雄(むかい ただお) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分)   執筆年  
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
私は向井唯雄でございます。

演談の場を戴き感謝で一杯です。

歳月は巡り明朝八時十五分も刻々とせまって参りました。

本朝は広島平和公園の原爆慰霊碑に刻まれてある「安らかに眠って下さい。あやまちは繰り返しません」この意味を考えつつ所感の一端を申し述べさせていただきます。想い起こせば昭和二十年八月六日、朝の間の一と時でした。学校は夏休みで、いつもの如く起床し、父母は既に野良仕事に出掛けて、唯一人で朝飯を食べ、牛馬にえさと水をやろうと足を向けた瞬間、ピカーッと鋭い光線がひらめき、間髪を入れずズドーンと腹をえぐられるような気味悪い音響が耳をつんざきました。「どしたんじゃろうか」と小高い丘に走って行き、広島市の方角を見たら、どす黒い煙が天に立ち込め、空一面をおおっていたのです。けたたましい空襲警報のサイレンもきこえ、空の要さいB29が我者顔に飛び去るのを見るだけだったのです。

半年(六ヶ月)前の二月には戦艦大和を造った海軍工しょうや、軍港のある呉市の一部が敵軍の投下した焼い弾で赤々と炎上した有様や、三月に入り、停泊中の巡洋艦、利根、大淀その他数多く軍艦がグラマン戦闘機、爆撃機等による空からの襲撃に依り、迎え撃つ艦砲射撃もなんの効なく次々と撃沈される場面を間近に見、私自身も機銃射のそれ玉を脚下に受けたこともありましたが、八月六日広島市をおおう黒い煙にはじめて、これが戦争かと思い至りました。昼過ぎ帰って来た、おふくろは、「広島市内にいる花子はどうしちょるかのう。爆弾でやられちょらんにゃあええがのう」とぼやきながら、わら仕事を始めた。夕方の七時頃、学徒動員で藤川製鋼所に働いていた姉が「おかあちゃん」といって家に入るなりブッたおれて仕舞ったのです。顔の一部だけはローソクのように青白かったが、髪はちりぢり、まとっている衣服はこげて破れており、母はかわいそうにと花子をだきおこし、水を口に注いだり、手ぬぐいで頭や顔をふき、私は姉の足をさすってやった。その甲斐あってか、しばらくして姉は眼を開き、ブツブツ云いだした。ピカット光りあとはわからんじゃった。気が付いたら天井板に敷かれており、ハウようにして外に出たら青黒い人の死体がごろごろと横たわり、焼けただれた人の水をくれ、助けて・・・と泣きさけぶ声を聴いたが、あまりおそろしいので死体の間をぬうようにしてやっと宇品までたどり着いたとのことだった。

後々人から聞いた話では、原子爆弾で一瞬にして二十数万の貴き人命が死傷した人類史上初めての大惨事で被爆地広島市は草木も生えぬ焼土と化してしまったとのこと。あれから四十九年時うつり世の中変り平和な現在、その当時を回顧し、諸々の事由があったとは云え、国と国との条約を破り、戦争を仕掛けその応報が斯かる惨事を引き起こしたであろうと思うとき、自らが招いた禍の種は自らの手で刈り取る責任と義務、つまり二度と戦争はひきおこさぬよう、国民総ざんげと反省をし、より一層平和への実践にいそしみ励まねばならぬと痛感するものでございます。茲に於いて私は生命のある限り、平和の影に幾多の貴き犠牲者があったことを片時も忘れず、今尚ケロイドを背負い病床に横たわっておられる数多くの人々の声なき声を肝に銘じ、禍を転じて福となす堅い決意で、個人的人間同志にあっては無駄な争い事、無惨な暴力行為、刃傷沙汰なきよう、国は戦争から平和へと・・・・・

只管、会■先生よりの御教えと五つの誓いを金科玉条として随時随所で他人を愛し敬い、自分を愛し郷土を愛し国を愛して、自他の共存共栄の為に、あせらず、あわてずあきらめることなく、私自身の生活の中で自分を律し同じあやまちはくり返さぬよう日々努力精進させて戴く覚悟でございます。

ごせいちょう誠にありがとうございました。
  

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