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昭和廿年八月六日朝八時十五分原爆投下 
菅井 巴(すがい ともえ) 
性別 女性  被爆時年齢 42歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1984年 
被爆場所 広島市白島九軒町[現:広島市中区] 
被爆時職業 主婦 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
今年の冬は例年に無く寒さが激しいので毎日炬燵で雑誌等見て居ります。うちでは毎月ミセスと外のと二冊読んで居ります。三月号を開きますと「あなたも原稿書て見ませんか」と有るの見まして何となく私も書て見度く字の下手なのはもとより字は忘れて居りますから字引と首引です。何しろ私はもう半年で八十二才になります。今迄書た事も有りませんし文章も駄目で誠にお恥しいですが三十九年前の原爆投下された時の事を書いて見度く薄らいだ記憶をたどり乍らペンを取る事に致しました。

昭和廿年四月に小学校三年生の長女を田舎へ縁故疎開させて居りましたので爆弾投下の事は委しくは話してありませんでしたので忘れないうちに書残して置き度と思ます。戦争が如何に残酷な事か知ってほしいと思ひます。

長男は学徒動員で毎日学校へ行て居りました。

昭和廿年八月六日の朝は夏とはいへとてもすがすがしい気持よい朝でした。午前七時三〇分頃時々往診して頂いている香川先生と出勤の途中先生に出会ったと云て主人が帰て来たので三人で病室に入りました。病室は道路ぞいの奥の室で窓の外は神社の参道になっていました。

病人は廿年二月頃から脊髄と骨盤へかけて筋腫が出来て年令的にも手術は無理との事で下半身不随で寝たきりの闘病生活でした。

香川先生は歩けない病人に色々お話で励して下さるのでした。其時窓の外が急に青白い光で一パイになり皆驚いて顔見合せました。先生は直撃弾かなとすぐお立ちに成て客間の方へ行かれたので、私も思はず立って後に続きますと目の前に天井が落ちて来たので思ず傍の本棚の前にかがみ込みました。多分大きな音がしたと思いますが私は何の音も聞いていません。何秒かするとさっと背中が濡れる感じがしました。多分硝子がさゝった傷からの血でせう。こゝで其のまま死ぬかと思ふと田舎へ行かした娘の顔が頭に浮び静かな時がたちました。

其の時空気を破る様に二階の方から助けてェの長男の声に続いて今行くよの主人の声に、あー皆生きて居たのだなあとほっとしました。

障害物を越へて次の間に出た時人形の箱の戸が開いて人形が散ばって時計も二つ三つ転がって居ても拾ふ気力も無く後で時計が無くて困ったものでした。

先生は客間の天井が落ちた時足を骨折されたと後になって聞ました。其の時は落着いて居られて、玄関には病人を運ぶ担架や壁土や硝子の破片の下から靴を探してはいて居られました。私達はうろうろするばかりで跣足のまゝ外へ出たが、歩けそうも無いので家に入って片々の下駄を穿いて出たのでした。外へ出て見るとお向ひのお子さんが爆弾の為に道路に倒れ亡くなって居られたのを見て今更ながらピカの怖さに身も凍る思いだった。

主人は肩甲骨の直ぐ下肋骨の上を何かでエグられた様に穴に成て居るのを見て何したら良いかと胸が痛くなりました。

先生は往診カバンの中に応急手当の材料が入れて居るからとお探しに成ったけれど見当ず傍に転がって居る箪笥の引出しから白い布を取出し仮包帯をして頂いたお陰で出血も余りせず河原へ出てから少し吐血した丈で済んだ。兎に角病院へ早く行って「広い被害とは知らないので」治療して頂いて、帰ってから病人の身のまわりの物を取りのぞいて上げ様と急いで外へ出て見て驚きました。

病院に行ける様な道も乗物もなくたとへ乗物が有ったとしても二メートルと動きません。皆無言で手を上げた人、胸のあたりを押へた人、どこへ行くのかと思ふ程急(いそが)しそうな行列に私達も流れについて行く途中、倒れたらもう立つ元気も無く坐ったまゝの人、私達は列からはなれない様一生懸命歩きました。倒れた人が有っても声をかけて上る人も無く私も其の一人でした。こんな怖しい事って有るのか知らんと不思議でした。ピカなんてまるで知りませんもの。

行着いた所は私達の住んで居る裏の河原でした。広い河原が被害を受けた人で一パイでした。土の上が気にもならず坐り込んでしまって其まゝ、気を失いました。黒い雨に打たれて気が付き長男を見ると顔を押へて痛い痛いと云います。火が無いのに不思議でしたが爆弾の放射能の光に当ったからと後に判りました。

急に残して来た病人が気に成り行こうとしましたら、周囲の方々が白島はもう火の海だから行かれませんと云われて私達は愕然としてなすすべを知りませんでした。

河原の大ぜいの人々は大方の人が火傷した人ばかりでお気の毒で私達の硝子の傷等何でもない様に見へました。

そんな事で病人を死なせてしまって返すがへすも残念なことを致しました。それ以来申訳なくて夜目がさめると三時間位眠れない日が一年位続きました。

ピカより前までは警報の度毎に防空ゴーに入れたり時間が有る時は担架に乗せて三人がゝりで河原へ出して居りましたが運悪くあの日は警報が鳴らなくて急に空シューで何うする事も出来なかったのでした。

永かった一日もやがて夕ぐれ近くなったので午後五時頃未だあちこちから煙がくすぶって居る焼跡の姉のなきがらに合掌し言葉も無く未だ熱い土の上にひざまずき冥福を祈りました。

其の夜の食事は近所で持ち寄って昼のことを話し乍ら済して自分達の防空ゴーに帰りました。

お隣に井戸へ入れて助ったからとお布団を持て来て下さったので嬉んで使わせて頂く事にした。未だ暖い土の上に敷き天を仰ぐと一パイの星が今日の大事件知らぬげにキラキラと輝いている。朝からの出来事や母や娘のこと、姉妹のこと等思い乍ら星を見つめて居る事等知らすすべも無くあれやこれや頭の中をかけめぐり遂に眠れないで朝になりました。

昨日と同じ朝なのに見渡す限り焼野原で夢ならよいのですがこれ丈は現実でした。広島駅の汽車の発車のキテキが聞へるので驚きました。何こに道が有るのか判らない程電線が網の目の様に、其の下に焼トタン、レンガ、焼瓦、かべ土、等でうっかり歩けば倒れそうな状態でした。

七日の朝私の甥が心配して学校へ行く途中尋ねてくれました。怪我はしても生きて元気そうなので安心して学校へ行きました。

逓信病院で治療して頂けると聞き主人と行き、大ぜいの患者の列の後につきました。私達の怪我は軽い方で火傷の方々は両手を前に出したり、皮ふがはがれてたれ下り、お気の毒で見て居られない様でした。病院にも材料が不足なのでせう、砂の付いた傷等其のまゝアカチンを塗られた丈で皮ふの下には硝子の破片が有っても其のまゝですから快復もはかどりませんでした。

香川先生はピカの時落ちて来た天井でお足を骨折しられたそうですが御緩り御静養のひまも無く患者の治療に当られたそうです。
火傷した中学二年の長男は風邪で休んで居りまして学徒動員を欠席して居りました。B29の爆音を聞き二階へ上り窓を開けて空を見上たとたんに閃光で顔半面焼たのでした。そして爆風で後へ押し倒された時助けてと云ったのでした。

長男はお医者へ行く事を極度に怖れますので困てしまいました。顔は赤白くハレ熱をもってきますし。

市内で原爆に合った者は郊外の民家に一週間程お世話を受る事になって居りましたので七日夕方歩いて西原と云ふ処へ行きました。途中逢ふ人から「しっかりしなさいよ」と長男の顔を見て励して下さるのでした。

西原のお宅では長男さんが行方不明で毎日探しに出て居られ他人の世話等大変だったと思ます。

花火の火傷には石灰の水で冷せばよいとかねて聞て居りましたので農家から石灰を頂き水を入て上ずみの水で患部を冷し続けました。

長男はハエが止るのを極度に怖れ夜も昼も蚊やを吊り通しでした。便所へ行く途中鏡が有ります。其の前走って通ていました。見るのが怖くて。

重症の方のお話を聞ますと患部にハエが卵を生み付けウジがウミの中を出たり入ったりしたそうです。思った丈でも身がちゞむようです。長男は石灰の水が良かったのか化膿もしないで二ヶ月半で外出出来る様になりました。

閃光に当た目、廿五才の時両方共手術を受け今では眼鏡のお蔭で過して居ります。抜けた髪も生へ顔も何ちらが焼たか判らなくなりました。主人は廿三年に腸癌で入院手術をして退院後三ヶ月で亡くなりました。

私の硝子の傷は表面は快復しましたが患部の下には硝子の破片が其のまゝです。日赤病院でレントゲン透視して頂いた時破片を出して上げ様と云って下さいましたが二の腕なので痛くも有りませんので其のままにして居ります。

菅井 巴 八十二才
明治三五年九月二五日生 菅井 巴
投下時の住所 広島市中区白島九軒町

長男 菅井 宏 平成二六年八四才没

長女 菅井 久人子 資料出人八〇才
  

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