当時広島市大手町八丁目一〇七番地に家族で居住してゐました。但し本籍地は山口県で当時家族疎開で兄弟・妹達は半数柳井の方へ引越し、家業を継ぐ父を中心に生活してゐました。上記市内大手町の家には母と私が居住しておりました。当日八月六日母は家屋疎開の勤労奉仕の一員として隣組の方と作業に出てゐました。弟作彌は附中の夏休みで柳井にいましたが、前日柳井から家調米のお米をかゝえて大手町の家へ運搬し、折角だから一泊して帰柳すれば良いと引止めました。と謂うのも宮島を過ぎた頃、空襲警報となり列車の停止で、その地点で汽車を降り、歩いて家まで往きついたので、疲れてゐるから、やすんで明日帰ればと引止めました。その為被爆し、家で圧死、焼死する結果となりました。
吾々附中生は、当時学徒動員、勤労奉仕隊の一員として、広島陸軍被服支廠に動員されてゐました。作業勤務は輸送班との部署で、佐藤中尉殿が班長で指揮を取られてゐたと記憶します。作業内容は廠内に在る倉庫内の軍衣とか編上靴等梱包された木箱等を市外の八本松の民間倉庫や宇品近隣の港湾倉庫へ移動する作業、又数棟あったと思はれるレンガ造りの大型倉庫内の荷物の移動の為に民間より借り上げの車馬を利用して疎開整理を主として作業してゐました。
私は当日八月六日は前記借上げ馬車を配車するべく、正門を入った直ぐの場所で待ってゐました。朝の陽射しが厳しい為に木影を求めて立哨してゐたのが幸ひして、原爆の放射熱を受けることなく、ヤケドもなく、爆風でとばされ気を失ってしまひました。どの位の時間か判りませんが避難する作業員に踏まれて気付きました。目前に先程まで正面玄関前で立哨してゐる兵の銃が飛ばされて在り。兵士の姿を発見する事はありませんでした。無傷で救すかった私は、その后作業班の事務所前に戻り、クラスメーツと過しました。傷をうけた人もありましたが、吾々は全員無事だったのは何よりの事実で安堵しました。
その後どの位の時間が流れたか判りませんが、引率の学校教師の指示で、多くの被爆者が来所をする方達を倉庫内に案内し、床にゴムシートを敷き、破損しかけた鉄扉から洩れる明り窓の薄暗い庫内は被爆者の貯り場となりました。又焼傷の為着衣もボロボロで膚はむき出しですさまじい状態ですが、ここに来れば傷の手当てを受けられると聞いたと集って来ましたと話してゐます。ヤケドには油を塗布すれば応急措置の医療だという事で、その手当て法を無傷の吾々生徒数名が選ばれてブリキ製の一斗缶に、多分食用油であろうその菜種油らしきアブラを受けとり、奥の何号倉庫かの入り口前で素手でアブラの中に両手を入れ、患者の首筋から肩辺り背中、両腕に塗りつけるのですが、その度にヤケドの皮膚がズルッ~ズルッと、まるで蒸したジャガ芋の皮がむけるやうに手の掌に着いて、あらたな赤たゞれた皮膚が出てくるのです。
それだけで当の私は目舞いがして気分が悪くなり三人目の背中を見ただけでアブラでぬるぬるする手をズボンにこすりつけて気を失ってしまひました。その後の養生は何誰(ドナタ)が続けて下さったのか判りません。
例へば「水を呉れ」の声や、傷が痛む為の泣き叫ぶ声が倉庫内に反響する。何んと表現すれば良いのかその騒音やうめき声を耳にした方は生涯忘れることはできない声音として、耳奥に深く脳裏に刻まれてゐらっしゃる事でせう。
深夜遅くまで眠れぬ夜を過す。吾々生徒一同は、当時の「勤労動員学徒の歌」を口づさみ合唱し、一夜を翌かしました。翌朝朝礼の刻、「広島市内は全滅し、焼土と化した」実状を伺い、一応帰宅する事を許された。学校連絡の事など気付きを訓示され、二度と訪れる事は無いであろう、被服支廠とのお別れとなりました。
解散前に支廠から皆実町の裏通りを歩行し、宇品の何処かに作業に行ったことを思い出しましたが、その途中被爆はしても火災に遇うことはなく当時各家庭の玄関口に防火用水や馬穴、火消し用縄使用の箒やはたき等用紙に何個何本を整備してゐる事を記した紙を門扉や壁に張り付けてゐましたが、その墨書の黒字が(丁度凸レンズで紙を焼いて太陽熱を利用する実験を演ったものですが)と全く同じやうに被爆の際の熱でキレイに紙の字が焼かれてゐるのを発見して、一驚したものでした。
さて解散して吾が家が気懸りで焼土の中を帰宅する途々、防火用水の大きな水槽の中に人影を発見したり、人や馬が二倍位に焼傷でふくれ上ったり、道端に多くの死者に遇ったり、御幸橋から電車通りをつたい歩きしながら鷹野橋に近づくに従い、市内の全貌が眺望出来るやうになり目に付く建物の姿は市役所やその向うに袋町の日銀や浅野の図書館が目立ち他は何もなく只ガラガラの焼け跡家屋の姿に恐い思いがありました。勿論吾が家に着いても只玄関先の防火用水と中庭の手水鉢の石位で、家の敷地に脚を踏みこんだ瞬間焼けた瓦の熱で地下足袋の布が焼け熱いと思った瞬時に右足のキビス(踵)をやけどして一歩も中へ入れませんでした。弟は無事だったろうか、母はどうだろうと気になりましたがあきらめて柳井に向けて帰ろうと家を後にしました。己斐駅からと思ひ紙屋町からひたすら電車道を歩いてゐると、後ろから声を掛けられ呼び止められたのは、一年下級生同郷の林君でした。偶然の再会でした。彼の弁によると今列車は不通で下りは駄目だとの事、これから知人宅が可部にあるのでそこ迄往くのですが祇園迄歩かないと可部線は通じないので同伴しませんかの話に、お互無事を悦びながら彼の話に乗りました。翌日ご厚意を謝し、林君一緒に横川駅に向いました。午后ですが己斐から貨物列車の天蓋車輌に乗って柳井に帰り着きました。
長兄は私を探して広島市内を探し歩き二次放射線に患り頭髪は抜け血便を下し肺浸潤をそして最期は心不全で昭二二年二月に亡くなりました。弟はその后広島の家の跡地から白骨して死去し、母は皆実町の親属の家に避難したのですが、同年八月一二日正午に天に召されました。
私は三人の生命を戴いたのか、現在も生存してゐますが被爆后の病気と云へば肋膜炎をはじめ栄養失調症、白内障(両眼)、貧血症、八〇歳を過ぎて、大腸ガン、食道ガンで現在寝たきり独居老人であります。
被爆者としての苦しみ、不安等は語る、云はないは別として誰れも皆同じだと思います。只管平和を祈り、被爆死した或は被爆した者の何時までも健やかな精神と無事である事を祈願するばかりであります。
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