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原爆の思い出(体験記) 
目代 延雄(もくだい のぶお) 
性別 男性  被爆時年齢 27歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 中国軍管区輜重兵補充隊(中国第139部隊)(広島市基町[現:広島市中区基町]) 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 中国軍管区輜重兵補充隊(中国第139部隊) 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
私は当時召集で、中国第一三九部隊(広島陸軍輜重隊)にいました(現ファミリープール、相生橋上る桜土手筋)。入隊したのは昭和二〇年四月で、沖縄に米軍上陸の報もあり。いよいよ本土決戦だと、女性の竹槍の訓練も行なわれる地方もありました。この様な状況でも、誰一人日本は負けるなど一口として言う者もなく、また言ってもならず、思ってもいなかったのです。最後のご奉公と勇んで入隊しました。

本土の空襲も日々激しさを増し、広島地方軍需工場、軍の重要基地とあって、敵機飛来は日夜続き、空襲警報の解除の暇なき有様でした。七月二日は呉市の大空襲で大半が焼かれ、広島へも刻一刻とせまり、恐怖の昼夜でありました。

八月五日(日曜日)特別の任務もなく班内待機でした。夜になって無気味な空襲のサイレンが鳴り響き、何度も防空壕に入ったり出たり。私達の部隊は輜重隊で、自分だけ防空壕への待避ではすまず、馬を待避させねばなりません。

そのうち夜も明け八月六日早朝から焼け付くような暑い天気でありました。空襲警報も解除となっていましたが、午前七時一〇分再度空襲警報のサイレンが鳴る。上空には敵機と思われる銀翼がキラリキラリと光って飛行雲を引いている。だが七時三〇分空襲警報解除となる。

皆が友軍機だと言う者、敵機だと言う者、色々だが、解除でホッとした気持ちで朝食に営舎に急ぐ。午前八時一五分、運命の時刻の刻々と近付いていることを知る者誰一人として知らず朝食である。

広島の上空は敵機が飛んでいたのです。何千何万メートル上空より投下された、大きな火柱となって炸裂、空を斬る閃光、沸き上がる巨大なキノコ雲、灼熱の爆風は一挙に建物を圧しつぶし、炎を振りまき、一瞬の間に焼野原とし、死者二〇万人、負傷者一〇万人いやこれ以上を出し、一〇分も経たぬ内に真っ黒な雨を降らした悲惨なる状況は、世界初めての手段であり、顔もそむける惨状は、筆舌に言い尽くせるものではありません。

この手段の罪は永久に消せることは出来ません。又、消してはなりません。

その時私は中国第一三九部隊【広島輜重第伍部隊(現広島青少年センター・ファミリープール)】にいました。部隊の防空壕(空襲のときに兵隊や馬を待避する壕)が太田川の土手筋に創られてありました。八月五日の空襲(警報)で何度も馬を待避しました、防空壕の中の清掃の点検に入った瞬間、入口で稲光と共に大きな異音がしました。慌てて壕より出ようとしたが、煙と熱風でとても呼吸が苦しく、暫くして這い出してみると、営舎・建物という建物は圧し潰されて燃えて、辺りを見ても人影もなく、炎と煙で施しようもなく、何事が起こったか検討がつきません。その時頼みとするのは、馬木練習場の教育班と作業班(五〇名余り)しかなく、先ず連絡をと無我夢中、市内を抜け馬木の方向へと走ったのですが、今なお、その経路の記憶が思い出すことができません。馬木から食糧を持参した応援隊と中山峠で、午後四時頃出会ったと思います。そして一緒に本体に引きかえす、その道中は負傷した人、道に倒れた人、着ているものはボロボロ、裸同様で見られる姿ではありません。擦れ違っても声かける元気もなく、又、どうすることも出来ない状態。暗くなり本隊に着き、その夜(六日)は本隊の焼跡で警備につく。夜の深まるに従い異様な気持ちになる。生温かい風と共に鼻をつく臭い、周囲は真暗である。被爆した軍馬がフラリフラリと人恋しと寄ってくるが、どうしてやることも出来ずかわいそうでならない。真暗な中を廻っていると、何か軟らかいものに躓く。命の切れた兵隊である。兵舎のあちらこちらにポロリポロリと火が燃えている。水!水!と、どこからか声はするが、真暗で姿は解らず声はだんだん遠くなるように感じ、朝方は声も聞こえない凄い感じがする。

七日から残った兵隊(馬木にいた教育班・作業班の四〇名)手分けして部隊内の整理、市内外我が部隊の兵隊捜し、死者の整理。
自分は牛田・三篠・戸坂方面を廻ることとなる。各地域の仮収所は負傷者・患者で満員である。誰が誰やら一向に解らない姿。枕元に『むすび』が置かれたまま手はつけていない、『むすび』を握ったままの者、水を求めて出ない水道の蛇口に手を添えたまま命絶えたる者、板間や土間に裸に近い姿で死んでいる者、三日間牛田・三篠・戸坂方面を廻る。前日兵隊さん水を下さいと言っていた、その兵隊は今日は死んでいるが、そのままで手が届かないのである。

彼らは、皆親兄弟の連れに来てくれるのを待っているのである。その後彼等は親のもとに帰ることが出来たであろうかと思うと、悲しみに咽ぶ思いである。

そして市内外の巡回も終わって、部隊内の被爆死した兵隊の処理である。兵舎の下敷きになった兵隊の取出しは大変であった。太田川の土手に並べての火葬である。一〇人や二〇人ではない、何百人を兵舎の焼け残り材を覆っての作業、暑い・暑い・夏のこと、悪臭と被爆での火傷した死骸、子供の頃、お寺で地獄極楽の絵巻を見た時の……地獄絵巻の感じがいたしました。

その作業も終わり、遺骨の整理も終わり、部隊も広島を引揚げ福王寺(現安佐北区可部)に移る。私は本部員より早く除隊す。当時のあの悲惨な状態は思い出したくない。

時々部隊跡に行く。相生橋より土手を川上へと登る、空鞘橋東詰めに馬碑がある。さらに自由広場土手筋を上ると、第二陸軍病院の慰霊碑がある。そこに陸軍病院の門表の石柱が当時の面影を残すのみ。この馬碑のある辺りを中心に相生橋~三篠橋辺りが輜重隊(中国第一三九部隊)と陸軍病院であったと思う。

この太田川筋の土手を桜土手と言っていた。この土手を散歩していると、いろんなことが浮ぶ。目の前には次から次へと当時の様子が写ってくる。今日もありし日と同じように暑さが激しい。「水!」と隊友が叫んでいるような気がする。

またこの土手を散歩していると、ふと目につく被爆した樹がある。この被爆「エノキ」には立て札があります。『原爆は罪のない「エノキ」まで、見苦しい姿にした。今日まで本当によく生きてきた、生命の力強さと、尊さを知った。かわいそうな「エノキ」基町に住む私達は、この樹を守ってやる義務がある』――基町小学校児童会――

この「エノキ」は半分以上焼け爛れたようになっています。春は緑と花を咲かせ、そして実を結んで我々の目を楽しませてくれます。本当によく生きてこられたものです。生命力の強さと尊さを教えてくれています。

このように力強く生き続けて…全世界に向かって核反対を叫び、このような悲惨な有様は二度と起こさないことと核実験の中止を願い筆をおきます。

合 掌 (執筆時期不明)

 

  

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