原爆投下時にいた場所と状況
広島市吉島羽衣町児玉邸に友人と下宿(五日)翌日六日登校しようとして廊下のガラス戸の鍵をかけた瞬間ピカッとオレンジ色の光り浴びドンという音と同時に家が倒れ下敷きになる。
一号(直接)被爆 爆心地から二キロメートル
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
広島工専(現広大工学部)の文部省科学研究補助員養成所在学中。登校寸前に下宿で被爆
八時十五分悪夢の一瞬(ピカドン)背中にガラスの破片がささり痛みをこらえて玄関の下敷きになって重傷を負った友を近所のおばさんに手伝ってもらって吉島飛行場に避難、そこは修羅場のように傷ついた人々が溢れている。救護所で応急手当を受ける(消毒をしてもらうだけ)横になって動けない友のそばにつきそって日は暮れる。上空では飛行機の無気味な爆音、地上はうめき苦しむ重傷者たち生きた心地がしない。翌未明重傷の人は軍の船で似島に運ばれて治療を受けることになる。私は元安川を渡って千田町を通り人々の後について広島駅へ向う。途中の凄慘な光景、黒こげの人々、皮膚がたれて瀕死の状態の人が水・水と叫んでとてもこの世の光景とは思えない。広島駅は被爆で次の海田駅まで歩き、やっと上り列車に乗ることができた。爆心地近くも広島市内の様子は地獄でした。とても言葉では云いあらわせない傷ついた自分が駅まで歩けたことも信じられない。汽車は途中何回も止まりました。松永駅へ着いたのは午後十時過ぎでした。木炭バスも何も乗物はなく八キロの夜中の山道を歩いて我が家に辿りついたのは十二時近くでした。母を呼ぶ声で飛び出して来た母の胸に倒れこんだまま翌日の昼近くまで眠り続けました。背中にひどい痛みを感じて目覚めた私の背中は沢山の硝子の破片がささっていて母も驚きすぐ隣村の病院に入院しました。院長先生にも「よく歩いて帰れたな」と感心されました。ガラスの破片は深くくいこんでいたので一日一ヶ所づつ取出し衰弱していたので二ケ月入院しました。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
退院してもすぐは働けないので洋裁を習ったりしましたがすぐ疲れるのでやめ、勤めにも出ましたがやはり体調が悪く広島を忘れるため姉を頼って上京、見合い結婚をしました。東京では被爆の話はしませんでした。流産も二回ありましたが二人の娘に恵まれました。甲状腺機能亢進でバセドウ病の手術(一九六四年)をしました。被爆が影響していると云われました。又一九七八年には胃の手術をしました。それで主人にも進められ一九八〇年の十二月に被爆者手帳の交付を受けました。その頃には被爆者への偏見もなくなり長広会のあることも知りました。(役員の田中様が来て下さいましたので)病気の心配はバセドウ手術後七年後甲状腺機能低下症と診断され低下分の薬を一生飲み続けなくてはいけない。生きているかぎり通院が必要なことです。毎朝甲状腺末を飲んで低下分を補給しています。通院できる間はよいのですが年老いて動けなくなった時が心配です。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
この世から被爆者を二度とつくらないよう核実験の反対署名等もすすんで協力してゆきたいと思います。そのためにも無理をしないで少しでも長生きして私たちの体験を語り継いでゆくことだと思います。被爆者をつくらない。
世界中から核兵器を完全になくして平和な生活が安心してできる世の中、被爆者の訴えたいことは只ひとつこの世から核実験をなくして欲しいことです。核抑止条約が決められても大国の横暴でいまだに核実験が続けられていることは許せないと思います。世界中から核をなくして欲しい戦争をなくして欲しい。皆が希望をもって生活できる世の中であって欲しい。
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