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「鎮魂」と出会い、三次を訪問して 
別所 智子(べっしょ ともこ) 
性別 女性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分)   執筆年 2012年 
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

国会図書館で見つけた「鎮魂」という一冊の本がきっかけで、六月二四日に初めて三次を訪ねました。「鎮魂」は、原爆時に三次で行われた救護活動についてまとめた本で、三次高校史学部から一九七七年に発行されました。

私の母は今年で八五歳になります。一三年前に父を亡くしてから、一人暮らしをしていましたが、それも難しくなり、現在は老人ホームに暮らしています。母と原爆について私が知っていた事は、ほんのわずかでした。母が赤十字の看護婦であったこと、八月六日の少し前に山の方に疎開したので直接被爆せずにすんだこと、翌日にはトラックに乗って市内に戻り、川の土手で毛布をひいて、負傷者の方と並んで野宿をしながら救護活動をしたこと。しかし、母が話してくれた状況は、あまりにも悲惨で、当時こどもだった私にも母がその時の事を思い出したくない気持ちがよくわかりました。毎年八月六日の朝、黙祷をする母をまねながら、私と原爆は無関係ではないと思いながらも、その後、母に原爆のことを訪ねたことはありませんでした。

私の娘が小学六年生だった四年前の夏「祖父母に戦争体験を聞く」という宿題が出ました。娘にも原爆のことを知って貰いたいと思い、母に初めてその時の話をしてくれるように頼みました。その時に聞いた話がきっかけで、一七歳だった母が地獄のような状況の中でどれだけがんばったのか、私はもっと知りたくなりました。インターネットの古本屋のサイトで購入した「日本赤十字山口支部百年のあゆみ」という本に母の名前を見つけ、赤十字山口支部に問い合わせたところ、「第七一五救護班業務報告」という昭和一九年から二一年にかけての母達の詳しい活動を記した資料を手にすることができました。

母は、昭和一九年三月に山口赤十字看護専門学校を卒業後、昭和一九年一〇月赤紙がきて召集され、第七一五救護班として広島陸軍病院に派遣されました。今でも災害時には赤十字の看護師は臨時に救護班を編成して救護活動を行いますが、太平洋戦争中には、国内や外地の陸海軍の病院、病院船、部隊への従軍など九六〇程の救護班が派遣されました。普通、救護班は婦長一人と二〇人の看護婦で編成されます。母と三人の日赤同級生は当時一七歳で最年少の班員でした。しかし婦長さんといっても二十代ですから、いかに若い集団であったことかと思います。母達は、広島第二陸軍病院の結核病棟に配属されました。そして、八月六日のたった二週間前の七月二二日、陸軍病院の地方への分散疎開のため、三次中学に開設された広島陸軍第二病院三次分院に異動したのでした。母のいう「山の方」は三次のことでした。

二年前の八月六日、会社を午後から休み、生まれて初めて広島第二陸軍病院のあった基町に行きました。病院は、太田川の河畔にありましたが、今は土手に慰霊碑と病院の門柱が残るのみです。夕暮れの土手に座って、ここに毛布をひいて眠った母のことを思いました。広島第二陸軍病院は爆心地から八〇〇メートル、当時入院患者が約七五〇人、職員が約三三〇名で原爆により約七五%もの方が即死しました。原爆の落ちた翌日、全壊した病院跡の土手の臨時救護所に三次から入った母は、同僚であった看護婦さんが、屍となって兵隊に抱えられ焼場に連れて行かれる姿を見たそうです。看護婦さんはとてもきれいな人で、長い髪が兵隊の肩にまとわりついていた光景は忘れられないそうです。母も三次に異動がなければ、同じ運命をたどっていたかもしれません。それは、私や娘も存在しなかったことに繋がります。私は、母の運命を決めた三次という場所に、いつか行ってみたいと思っていました。

国会図書館で「原爆」「陸軍病院」というキーワードで検索をしていて、「鎮魂」を見つけました。本を開いて私の眼は釘付けになりました。そこには母が働いていた陸軍第二病院三次分院の様子や、当時を知る方たちの証言が詳しく記録されていたからです。しかし、出版されたのは、今から三五年前、この本についてこれ以上の情報を得るのは無理と考えていました。ところが、今年になってふとした思いつきで、三次高校のホームページから「史学部「鎮魂」について教えてください」というタイトルで同窓会担当のSさん宛てにメールを出しました。思いもしなかったことに、翌日にはこの本をまとめられた藤村耕市先生に問い合わせいただけるという返事をいただきました。その後、史学部にいらしたKさんから、藤村先生にお会いできるという返事をいただき、私は三次に行くことを決意しました。

広島のバスセンターから、朝七時四〇分発のバスで三次に出発しました。地図でみる三次は山に囲まれていましたが、実際に街中に入るとごく普通の地方都市という印象でした。三次のバスセンターで「鎮魂」の本を手に持ったSさんにお会いし、早速、三次高校に連れて行っていただきました。三次高校では、三次分院で救護活動をされた、当時中学二年生のFさんにお話を聞きました。当時、右の門柱には「広島三次中学」、左の門柱には「広島陸軍病院」の札がかかっていたそうです。母の記憶の中では、武道場の印象が強いのですが、建物は建て替えられたものの今も同じ場所に武道場がありました。「鎮魂」の本にも、武道場に負傷者が大勢寝かされている挿絵があります。やがて、芸備線で次々運び込まれる負傷者のために、コの字型の校舎の中の教室にも全部毛布をひいて対応したそうです。勉強に使用していた椅子と机は棺桶の材料となり、亡くなられた方は、線路を渡った向かいの山で、十字に掘った穴の中に重ねて焼かれたというお話でした。大八車に遺体を乗せて運ぶのが、Fさん達の仕事だったそうです。また、竹林から竹を切りだし、患者の使う食器に加工したというお話も聞きました。中学生は、病室(教室)には入れなかったそうなので中学生の皆さんと母たち看護婦は、直接お会いする機会はなかったようですが、Fさんのお話で、当時の三次分院の様子が実際に見たようにわかりました。

次にKさんも合流され「鎮魂」を編集された藤村先生のお宅に伺いました。先生のお宅は、川に面し、庭には桔梗の花が咲き、流れにはメダカが泳ぎ、山からはホトトギスの声が聞こえるような風情のあるお家でした。ものすごい数の本や資料に囲まれて穏やかな笑顔で先生が迎えてくださいました。先生には「鎮魂」作成時のお話を伺いました。証言者のお話に圧倒され、史学部の皆さんはメモをとるのも忘れていたとのことでした。また、「鎮魂」の中の挿絵は大変印象的ですが、これは原爆時の三次の様子を、父母や祖父母から聞いて絵に書くという夏休みの宿題から選ばれたものだそうです。先生は古代史から現代史まで三次に関係するものは、全て守備範囲ということで、先生の三次に対する愛情に感銘を受けました。また、Kさんは一人暮らしの先生を時々お尋ねするそうで、その師弟関係も羨ましく思えました。

その次には、母達の第七一五救護班が宿舎としてお借りしていた西善坊さんを訪ねました。救護班業務報告書には、三次では「世良氏方ニテ賄ヲ受ケツツアリ」との文章があります。また、広島の平和記念公園にある追悼記念館には、多くの方の証言が保存されていますが、その中に母と同じ班の方が「宿舎のお寺まで、田んぼの中の道を歩いて通った」との文章を残されているのを見つけました。二つの証言から、三次高校から徒歩範囲と思われるお寺を地図で探し西善坊さんを見つけ、さらに住職さんのお名前が「世良さん」であることがわかりました。早速、西善坊さんにご連絡したところ「昔、看護婦さんの宿舎であったことは聞いたことがある。」というお返事を奥様からいただきました。驚いたことに当日は、当時を知る叔母様がいらしてくださいました。山口日赤の看護婦さんのことはとてもよく覚えているとのことで、何人かのお名前やエピソードを教えてくださいました。母の名前は出てきませんでしたが、母のアルバムにあった写真をお見せしたところ、顔に見覚えがあるとのことでした。母と同い年の叔母様は、同世代であった看護婦達にとても親近感を持っていらしたようです。母達が、寝る暇もなく交代で分院に通っていたこと、患者さんのために献血もしていたこと、時にはお風呂のかわりに前の小川で水浴びしていたことなど、初めての話を沢山教えていただきました。母達が寝泊まりしていた本堂を見せていただきましたが、当時と全く変わってないそうです。原爆後、心配した母の姉が沢山の食料を持って、満員の芸備線で訪ねてきて、本堂に二人で並んで寝たという話を母から聞いていたので、その本堂そのままを見ることができ感激しました。

最後に、Iさんのお宅におじゃましました。玄関にも床の間にもきれいなお花を生け迎えてくださいました。Iさんは、当時女学校の生徒でしたが、先生と一緒に広島まで救援に行き、さらに三次でも血や膿のついた包帯を川で洗うなどの手伝いをしたそうです。市内でみた惨状は、きっと忘れられないものだと思います。

三次の一日をアレンジしてくださり、一日中車に乗せて案内してくださったSさんにゆっくりお礼をする間もなく、広島行きのバスに飛び乗りました。バスが三次を出るころから、激しく雨が降り出しました。

東京に帰り、母に三次のことを報告に行きました。母は「本当に三次に行ったのか?」「なぜ三次に行ったのか?」「なぜ母の昔を、母以上に知っているのか?」何度も尋ねました。私が話をするうち、母の口からも、同僚の名前や馬洗川の名前、武道場の話などが出てきました。母と一緒に過去にタイムトラベルをしたような不思議な時間を二人で過ごし、三次での一日がさらに夢のように感じられました。ネット社会に生きる私でさえ、今回お世話になった三次の皆さんとの出会いが信じられない奇跡に思えます。

もうすぐ八月六日がやってきます。今年も基町の陸軍病院の慰霊碑にお参りに行く予定です。母からはいつも「どんなに話をしても、平和な時代に生きる今の人達には伝わらないし、それが本当に平和な社会を築く力になるのか疑問に思う」と言われます。そう言われると私には返す言葉がありません。私自身、原爆を体験された方たちの話を聞くたびに、私自身が本当にその気持を理解できていないから、あれこれ調べられるのだとも思います。母の昔について調べ始めた後に、三月一一日、そして原発事故が起こりました。原発の話に原爆を持ち出すと「過剰反応だ」という人がいる反面、「原爆でも復興したのだから、原発だって大丈夫」というような発言をする人がいます。私達は「原爆」について、何を知っているのでしょうか?平和資料館を一度見学しただけで原爆を理解した気持ちになり、「唯一の被爆国として」という言葉を安易に口にしてきた日本人こそが、原爆の残虐性の本質である「放射能」に一番無知である気がしています。その事実に気がつくことができただけでも、この調査は無駄ではないと思っています。

母の誕生日は八月二〇日です。母の一八歳の誕生日は三次での不眠不休の看護の真っただ中でした。三次でも多くの若い人たちが原爆のために懸命に働いた事実が、「鎮魂」を通じて語り継がれていくことを願ってやみません。

本文章は、みよし地方史第八九号(二〇一二年一二月一日)
に掲載していただいたものです。

もし、母に関する情報がありましたら、ご連絡ください

一九四―〇〇四五 東京都町田市南成瀬八―一五―一〇

別所 智子

Yiu28396@nifty.com

 

 

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