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復旧後の一番電車に乗務して 
堀本 春野(ほりもと はるの) 
性別 女性  被爆時年齢 16歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 広島市皆実町二丁目[現:広島市南区] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島電鉄家政女学校 2年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

皆実町二丁目の広島電鉄家政女学校の寮で朝食の最中でした。窓を背に座っていた私達に、ピカーッと青い光が走り、瞬間専売局の方でのガス爆発かと思いました。天井は傾き、机や椅子や皆と一緒に飛ばされていました。素足で運動場に出て見ると、砂埃が立ち、毒ガスかと思い寮の方へ「濡れ手拭を」と見れば傾いていました。皆さんと一緒に我れ先にと防空壕に入りました。気が付くと、右耳の上から血が流れていました。しばらくして「逃げよう」と誰かの声で、学校を後にする時には専売局から猛火が寮を襲っていました。御幸橋から宇品の方へ行く時は、多勢が逃げ惑っていました。県病院の所で「家に帰る」と言う似島出身の同室の友と別れた時は、知らない人ばかりの中でした。家政の生徒は、井口の「実践女学校が避難場所」とされていたのを思い出し、ひとまず広電本社まで行きました。本社に近づくにつれ火傷の人がふえて「市中は火の海だ」と叫ぶ声も聞えました。本社には誰もいなくて、窓ガラス、椅子、紙切れ等々が散乱していました。一寸として、ゲートル巻きの乗務服姿の人が「空襲にあったらどうするんなら、早う逃げろ」とどなって姿を消しました。「母はどうなったのか」怖さと淋しさの長い時間でした。

専攻科の生徒が三、四人で来られた時は地獄で仏様のようでした。裏の食堂へ行くと炊事のおばさんや何人かの姿が見えて、焚き出しをしておられ、むすびを一つずつもらいました。ガラスの破片でかゲジゲジと音がしました。

四時か五時頃に専攻科の方達と四、五人で電車道沿いに井の口の実践女学校へと向いました。着いた時には、力つきて意識も判らない様でした。高木先生、家政の生徒が二〇人位と負傷者や一般の人々と畳を横にしてごろ寝で一夜が明けていました。

翌日に母を訪ねて専攻科の松永さんと市内に入り、半分お骨となった松永さんのお母さんは見つかりました。私の母(中島にいた)は捜せませんでした。其の夜から「下痢」になった私は、夜中じゅう便所に通い、翌日は通う元気もなく、渡り廊下に座り込んで居る時、「中島」「大手町」校を共にした水主町出身で国鉄に入られた加納さんが私を見つけて、救心のような薬を二粒飲ませて下さり、次の日は動かれるようになりました。(加納さんお元気でしょうか、お礼を申し上げたいです)隣で寝ていた今田愛子さんは体中に斑点が出て「海は広いナ」の童謡をくり返しながら逝かれました。

今日も母を捜しに行こうとした時に、先生が「今日から市内電車が運行するので、誰か乗務して下さい」と言われました。専攻科の人の殆どの中で、二年生の電車勤務だった私が行く事になりました。己斐の宮島線の詰所に行き、顔も知らない会社の人からキップも釣銭もない鞄を手渡され「お金のない人からは電車賃をもらわんでも、ええで」と言うことでした。電車は四〇〇型だったように思います。乗務して見れば、己斐から天満町の折り返しで、運行時間も休み時間もなく、お客がおーよそ座られたら発車すると言った具合でした。運転手も顔の知らない人でした。(宮島線の人かも)

乗客は無口な人が多く、「おお電車が動くんか」と驚かれる人。「鉄橋が怖いけんのー」と有難がる人。「火傷の人、斑点が見える人」色々でした。「有り難うございました」「済みません」と言い、電車賃の払えない人も多かったように思います。車内はもんぺやゲートルを巻き、救急袋や綿入れの防空頭巾、風呂敷包を持つ人は良い方で、手ぶらの人が多かった様に思います。身内の方を捜しにいくらしき人も有り、お客は少なかったとは言えない状態でした。

私も一人、本社にいて淋しさ、怖さ、焼け跡に母の姿のない情けなさ、前日の下痢と精神的に肉体的にと最悪だったので記憶もママなりません。立って居るのがヤットという中で乗務出来た事は、今も私の心に何かが残っています。勝手の違う宮島線へも乗務したものです。廿日市へお灸に通い、今もうっすらと跡が残っています。其の間、実践校の講堂では元気そうに見えた人達も、死んで逝かれる辛い日々が続きました。確か山の麓で火葬された様に思います。被爆から一か月位を実践女学校で過しましたが、誰一人として涙した者を見かけませんでした。泣く事すら忘れていたのでしょうか。

水害があって、学校も再建が不可能となり、力を落として島根に帰りました。あれ程捜した母の骨は一片すら判らず今日に到って居ます。原爆孤児となった私は、一六歳六か月で弟を連れて結婚しました。現在では三児の母であり、七人の祖母となり、病弱ながらも平和に過すことが出来る毎日を感謝しています。と同時に世界が永遠に平和である様に祈らずにはいられません。(原爆四〇周年、五五歳時の手記)

出典『広島電鉄開業八〇創立五〇年史』広島電鉄 平成4年(1992年)

 

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