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被爆体験について 
近藤 齊(こんどう ひとし) 
性別 男性  被爆時年齢 14歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
昭和二〇年八月六日は学校に登校中で学校に到着したばかりでした。原爆投下後一時間ぐらいで家に帰えろうと思い、天満橋の所まで帰りかけたが、橋の上から道がふさがって帰ることが出来ず、又学校に引き返し、学校で、先生、友達と午後三時~四時頃まで居りました。その間、昼前から学校の校舎から出火して校舎が次から次へと焼失してしまいました。その間米軍の艦載機が二、三度飛来して来ました。

午後三時半~四時頃に学校を出て、明治橋を渡り(両側の家は焼け落ち、人は死んで居りました。道には電線が落ちて通れませんでした。)鷹野橋の電車通りに出て南に下り御幸橋を渡って皆実町の親戚(母の兄の家)にたどり付きました。
 
親戚の家族は伯父、伯母、従兄弟四人が住んで居ましたが、伯父は不在でした。その他の者はヤケド、ケガ等で苦しんで居りましたので、救助、ケガの手当をして七日間程度生活の手伝いをして生活しました。(現在たばこ産業株式会社の土地で爆死した人を山のように積んで焼いていました。)
 
二日目だったと思いますが、母が心配して尋ねて来て一緒に生活の手伝、ケガ人の世話をしてくれましたが、なかなか生活が出来なく、交通機関がないので色々の方法を考えて、八本松町(川上村)に帰って来ました。伯母、従兄弟がヤケド、ケガをしているので看病を続けました。頭の髪が抜けました。
 
自分は、ヤケド、ケガがなかったのですが、頭の髪が抜けるのではないか、原爆の症状が出るのではないかと、毎日毎日思いながら生活をして居りました。

現在、東広島市原爆被害者の会を組織していますが事務局長をして頑張って居ります。 

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