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被爆体験について 
新延 幸一郎(にいのべ こういちろう) 
性別 男性  被爆時年齢 26歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 中国軍管区松江地区司令部 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
八月六日当日は私は島根県松江市の地区司令部の通信隊にいた(兵隊として)。広島の通信隊(基町護国神社の向って左側の地下壕)より四六時中米機の侵入状態を有線で連絡されていた。その日命令受領のため我が部隊の通信隊長外一名が広島へ出張。広島が新型爆弾により壊滅的打撃を受けたという情報が入ったが隊長から何も連絡がないので広島の情況及隊長外をさがすため八月八日二名で松江を出発九日朝入市した。

広島駅手前迄汽車で入り線路づたいに駅まで鶴羽根神社、饒津へ、途中道端に並んだ兵隊が坐ったまゝ死んでいて絵にあるように眼球がとび出していた。常盤橋の下には死体が沢山ゴロゴロしていた。電車道を通って西練兵場(沢山の人が治療を受けていた)、大本営、そして通信隊の地下壕へ行った。六日に行く予定の隊長の泊った大手町の宿舎も調べようがなく、本通から平田屋町のドブ川(水がキレイにすんでいて九日の晩は蚊もいなかった事を覚えている)から我が家(胡町)え、焼滅した家の水道の水が出ていた。くすぶって何か燃えていたのでそこで飯盒スイサンをして食事を取った。(次の長沼(中区中町在住)の叔父とイトコが手伝ってくれガレキの下から両親、妻、祖母、妹計五名の白骨を拾った。)それから東練兵場へ行き、沢山の兵隊が野営をして死体処理をしていて、偶然にも出張中の兵隊が尾長の民家に傷ついていると言うことを知った。恐らく宿舎(大手町)から逃げる途中、東練兵場の兵隊へ連絡していた事と思う。その兵隊は練兵場の東端の民家の二階に寝ていたので広島駅から汽車で松江に連れて帰った。その兵隊の言によると六日通信隊に行くべく宿舎を出ようと玄関でピカにあい一足先に出た隊長をさがしたが見当らなかったとのことだ。松江に連れて帰った兵隊は出血し続け二、三日后に死亡したという。悲惨さは言語に絶するものがあった。 

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