●八月六日の様子
私の家は草津本町にあり、父と母、そして生まれて間もない弟と私の四人で住んでいました。その頃の姓は吉田といいます。私は当時二十四歳で、己斐駅のすぐそばにある日本通運己斐支店に事務員として働いていました。戦争中なので男性は軍隊に召集され、会社には年配の方がいるぐらいで、女性ばかりの職場でした。
八月六日の朝はちょうど支店長の交代の日で、建物の中で朝礼があり、あいさつを聞いていました。そうでなければ、外に出たりしていたかもしれません。パッと光って、自分の机に帰らないといけないと思ったのでしょう、机まで帰ると意識を失っていたようです。ですから、音は聞いていません。
気がつくと、床が抜けて下に落ちていました。私の上には大きな書棚が倒れかかっていましたが、ちょうど机が支えとなり、隙間ができていて助かりました。私は焼夷弾が落ちたのだと思い、次の爆撃が来て火が回らないうちにと急ぎ、何とかはい上がりました。もし完全に書棚が倒れて隙間がなければ、助かることができなかったと思います。
やっとはい上がると、会社のすぐ隣にあるお宅から「助けて、助けて」という声が聞こえました。窓からのぞいてみると、母親と子どもが助けを呼んでいました。会社の方が一段高い位置にありましたので、引き上げて助けました。
会社の外へ出ると、その時まだ火は回っていませんでしたが、己斐の町は見る影もありません。どの建物も屋根、ガラス、ふすまは飛んでいて、半壊の状態でした。家へ帰らなければと歩き出しましたが、知らないうちに全身を打っていたようで気分が悪くなり、途中川に入り、水を浴びて頭を冷やしたりしました。原爆とは知りませんから、いつ次の攻撃があるかもしれないと思い、橋の下に隠れたりもしました。
帰る途中、学校の先生が生徒を三人連れて「避難場所を教えてください」と聞いてきました。私は「己斐の山に行きなさい」と教えました。生徒が三人だけなので、あとは助からなかったのだと思いました。その近くで女性が一人地面に座り息を荒くしていました。どうしたのかと思い、近寄ってみると、その女性は抱いていた赤ちゃんが爆風でどこかへ飛んで行ってしまったらしく行方がわからなくなったということでした。気の毒なことに様子がおかしくなっていました。
皆、我先に避難していました。私は高須や古江に知った人の家があったので、休ませてもらったり、水を飲ませてもらったりしながら、自宅へたどり着きました。西へ行くほど、建物は残っていました。私の家は倒れてこそいませんでしたが、爆風でガラス戸が割れ、破片が家の奥まで飛んでいてとても住める状態ではありませんでした。以前は呉服屋をしていたので、家の表は全部ガラス戸だったのです。家族が畑に避難していることを教えてもらい、そこに行くと近所の人たちも一緒でした。夜になると火事で広島の空が真っ赤になっているのが見えました。
原爆が落ちた時、母は洗濯をするため川へ出かけていましたが、無事でした。橋の下にでもいて陰になったのでしょう、だからやけどもせず助かったのだと思います。父と弟は家にいました。父は弟が泣くので連れて出ようと、弟を抱いて大戸のところに降りた瞬間に被爆したそうです。大戸というのは大きな重たい戸で、ちょうどその陰になったおかげでガラスの被害にもあわず無事でした。
●七日以降の様子
建物の中で被爆したので、やけどはなく髪が抜けたりもしませんでしたが、全身の打ち身に苦しみました。治療といえば、水を使って自分で冷やすぐらいでした。海では、船が避難する人を乗せては川を渡って帰ってきます。船が着くと「誰誰さんの家族はいますか」と山に向かって叫ぶ声が聞こえました。
近くの山に駐屯していた軍隊の方々がガラスなど家の片付けや屋根の修理をしてくださり、家が住めるようになりました。私は体の痛みがひどく、しばらく動くことができません。ただ、療養中に食事で苦労したという覚えはありませんでした。母が田舎の出身で、母の里から食べ物を送ってもらいました。
草津の学校は避難してきた人たちが、大勢収容されていました。亡くなった人は校庭で焼かれて、埋められました。病院でも多くの人たちが亡くなり、死体の山が庭いっぱいにありました。トラックがきて、まるで魚のようにポンポンと乗せられてどこかへ運ばれていきました。その頃になると、感覚が麻痺して人が死んでも涙も出ませんでした。
終戦になり、少し体が治った八月末頃会社に復帰しました。己斐の町はまだ復旧していませんでしたが、会社の建物はバラックのような応急処置をしていました。まだ男性は復員しておらず、女性職員も人数がそろっていなかったため忙しかったです。
●戦後の生活と後遺症
被爆した人は結婚できないと言われていましたが、主人も被爆していたので、結婚する時に大きな反対はありませんでした。
被爆してから健康でいた時期はなく、何かしら病気を持っていました。中でも頭痛には一番困りました。今では落ち着きましたが、初めは生活に支障の出るような痛みがあり、結婚後、転勤で岡山に行ってもずっと病院に通いました。六十歳を過ぎて胃がんになり、さらに十年たち、大腸がん、そして皮膚がんになりました。その間よく骨折もしました。何か大きな衝撃があって折れるのではなく、日常の中のちょっとしたことで折れてしまいます。貧血もあり、どこで倒れるかわかりません。また神経痛も長い間私を苦しめました。これらはすべて被爆後に出てきた病気で、ずっと薬を手放すことができない生活です。
●平和への思い
戦争中、召集されて駅から出征する方たちを見ましたが、ほとんど皆帰って来ないので、かわいそうに思いました。やはり戦争はいけません。
今まで孫から被爆体験を教えて欲しいと言われ、少し話をしたことはありましたが、積極的に語ったことはなく、本格的にお話しするのは今回が初めてです。今のうちに、原爆がどのようなものだったのかを残しておかなければならないと思っています。
※ 神吉孝子さんの「吉」の部首の「士」は、正式には「土」ですが、機種依存文字のため「吉」と表示しています。 |