●当時の生活
私は当時十歳で、油木町立安田国民学校五年生でした。昭和二十年三月末から、祖母の郷里である広島県東部の神石郡油木町安田(現在の神石高原町)へ疎開していました。祖父の彦太郎、祖母のシゲノ、国民学校二年生の妹、多津子も一緒でした。
親戚の家の離れを借り、六畳一間で生活をしました。当時は配給制で、どこに行っても物は満足にない状況でしたので、地元の人たちからはやっかい者扱いされ、差別されるようなこともありました。もったいないので靴は履かず、祖母の作った草履を履き、食べ物は、ツクシや木の芽などの野草をはじめ、食べられるものは何でも食べました。今では信じられないかもしれませんが、イナゴやヘビを焼いて食べることもあり、意外においしかったことも思い出されます。
私たちの家は三篠本町一丁目の横川駅近くにありました。家には、天満製氷所に勤務しながら警防団の分団長を兼任している父の滝夫、母のハツミ、広島貯金支局に勤務している九歳違いの姉のモモ子が残っていました。疎開して三か月くらいたったころ、妹は実家が恋しくなって、毎晩西の方に向かっては家に帰りたいと泣くようになり、それを見て私もだんだんと寂しい気持ちになりました。
●八月六日の様子
当時、夏休みはなく、八月六日も妹と一緒に登校していました。昼過ぎに学校から帰ると、普段とは様子が違い、離れの戸口の前で祖父が私たちの帰りを待っていました。祖父は、私の姿が見えるやいなや「おおい、おおい、弘、早く帰ってこい」と叫びました。今までこのようなことは一度もなかったので、急いで祖父の所へ行き、何があったのかたずねると、祖父は「弘、広島が大ごとになった」と言うのです。
いきなり「大ごとになった」と言われても、私にはどういうことかわかりません。今まで広島は空襲警報や警戒警報などが頻繁にありましたが、時々来る両親からの手紙には、「まだ空襲を受けていない」と書いてあったからです。祖父は、「役場から、広島が全滅したらしいと連絡を受けた」と言いました。
そうして翌日から、祖父、私、妹の三人で、広島に残っている両親と姉を捜しに行くことになりました。
●家族を捜しに入市
夜が明けて七日、私たちは油木町から朝一番のバスで比婆郡東城町(現在の庄原市)にある東城駅まで移動して、そこから汽車に乗りました。途中三次駅で乗り換え、広島駅の一つ手前にある矢賀駅まで来たところで、これ以上進むことができないと言われ、そこからは徒歩で広島駅へ向かいました。
驚いたことに線路上には、線路伝いに逃げてきたやけどやけがをした大勢の人たちが力尽きて倒れ、亡くなっているのです。私たちは、家族のことが心配になり、とにかく先を急ぐことにしました。
ようやく広島駅に到着した時には、もう夕方になっていました。広島駅の状況はさらに悲惨で、とても異様な臭いがしたことを覚えています。原爆が投下された時、ちょうど通勤時間帯だったので、おびただしい数の死体がありました。なかには内臓が破裂して飛び出ている死体もあり、その様子は今でも忘れることができません。駅から市内を見渡すと、ほとんどの建物が焼失し、そのため、普段は見えないはずの広島湾にある似島まで一望することができました。そして、火災はまだ完全に鎮火していなくて、あちこちでくすぶって煙を上げていました。この様子を目の当たりにした祖父は、「これは地獄じゃのう」と言いました。
それから、急いで家へ向いました。ようやく着いた時には日が暮れかかり、家は焼け落ちた後でした。父が自宅中庭に作った防空壕にも入って確認したのですが、誰もいませんでしたし、非常時備えていた物も黒く炭のようでした。
当時、それぞれの家の前には、空襲に備えて、水の入った防火水槽が用意してありました。よほど熱かったのでしょう、私の家の前にある防火水槽に上半身を突っ込んで亡くなっている人たちがいましたが、これも家族ではありませんでした。そうしている間にも日が暮れ、暗くなってきたので、私たちは三篠本町の北にある大芝町の川土手で野宿することにしました。
●市内の様子
翌日八日から、大芝町を拠点として広島市内を捜索しました。近くにある大芝国民学校の火災を免れた校舎が救護所になっていたので、ここに避難しているのではないかと思い、何回も捜しました。また、祖父に連れられ、姉の勤め先である千田町一丁目の広島貯金支局にも何回か行ってみました。しかしいくら捜しても、家族を見つけることはできませんでした。
九日になると、ようやく大芝町に救援隊が到着しました。炊き出しがあり、祖父がむすびをもらってきてくれました。麦が入ってパサパサしていましたが、ようやく一息ついたことを覚えています。それまで食べる物といえば、畑にあるサツマイモを生のままかじっただけで、後は水ばかり飲んでほとんど何も食べずに過ごしていました。
夜になり、祖父がついに「このままでは捜しに来ている自分たちまで倒れてしまうので、明日の朝もう一回り捜してから、いったん疎開先に帰ろう」と言いました。それを聞いた妹は地面に座り、「私は絶対帰らない」と泣きだしてしまいました。祖父は妹の肩を抱いて「そんなにおじいちゃんを困らせないでくれ」と言ってなだめ、翌日帰ることになりました。
私たちが寝ていた大芝町の川土手には、避難してきてそのまま亡くなっている人もたくさんいました。さっき話をしたばかりの人が、気がつくと亡くなっているような状態です。救援隊はまず生きている人を救助し、それから死体を収容していました。夏なので死体がすぐ腐ってしまうからだと思いますが、兵隊が土手の隅で五、六人の死体を重ねて焼いていました。しかし、夜が明けて朝になると、その骨がなくなっています。どうしたのかと思い祖父に聞くと、「夜、兵隊さんが骨を川へ流すんよ」と教えてくれました。このような状況のなかで、処置のしようがなかったこととはいえ、骨を流してしまうのは悲しいことだと祖父と一緒に涙したことが思い出されます。
そして十日の朝、最後にもう一度家族を捜して市内を回りましたが、誰も見つけられないまま油木町へ戻ったのです。
●家族との再会
疎開先へ戻ってから二日目に「明日の午後から、妹を連れてバス停で待ってみなさい」と祖母が言いました。その頃になると、近所に広島から親戚を頼って避難して来た人たちが現れはじめていたので、祖母も、午後に着く福山や広島から来るバスで誰か帰ってくるかもしれないと思ったのでしょう。
そして、毎日バス停で待ち始めてから数日後の午後、奇跡が起きました。いつも通りバスが到着し、今日もだめかと思っていると、突然「弘じゃないか」と肩をポンとたたかれたのです。それは、顔に包帯を巻きつけ目と鼻と口だけを出した父でした。本当にうれしかったです。思わず、妹と大声で「お父ちゃん」と泣きながら叫びました。
父は空襲警報発令と同時に、勤務先から横川駅近くにある警防団の詰所に向かう途中、正面から閃光を浴びたそうです。半袖シャツから出ていた顔や腕などにやけどをし、顔面などは特にえぐれている所もありましたが、油木町には一人しか医者がおらず、治療を受けることができませんでした。そのため、翌日から祖母が、親戚からもらったキュウリやバレイショのしぼり汁で湿布を作り、薬の代わりにやけどをした所に貼っていました。しかし、やけどした部分は徐々に腫れあがり、一週間後には、身動きができなくなってしまいました。さらに体液が流れ出て、いくら拭いても止まりません。父の体を動かすことができないため、拭ききれなかった体液が背中に流れてしまい、祖母が気づいた時には背中にウジがわいていました。祖母はかわいそうにと言いながら、懸命に介抱していました。
私と妹は、母と姉が避難してくるかもしれないので、父が着いてからも毎日バス停で待っていました。すると、次に母が疎開先へやって来ました。外傷がなかったので、すぐ分かりました。母は自宅で被爆し、倒壊した家の下敷きになったそうです。幸い隙間から明かりが見えたので、「助けて、助けてちょうだい」と叫び続けたところ、近所の人に救出され、三滝の山に避難していたとのことでした。母は下痢と高熱があったのですが、症状が収まったので、ようやく油木町に来ることができたそうです。その時、母は妊娠五か月だったそうですが、おなかの子も無事でした。
それから、今度は広島貯金支局に勤務していた姉が無事疎開先に到着しました。姉のことは無理かもしれないと覚悟し、もうバス停には行っていませんでした。広島貯金支局の朝礼の最中、窓際に立っていて被爆し、首にはガラスの破片を受けていました。そして被爆後、同僚としばらく山に避難していたようです。こうして、家族全員そろうことができました。
●家族への思い
一番元気だった祖母は、一生懸命に父の看病をしながら、家族を支えるため近所の農家に頼まれて、田んぼの草取りの手伝いをしていました。しかしその祖母が、たった一日か二日寝込んだだけで昭和二十年十月に突然亡くなってしまいました。もしかすると、体調が悪いのをずっとがまんして働いていたのかもしれませんが、私は、父の看病をしていたために間接被爆の影響があったのだと思っています。急なことだったので、本当に悲しかったです。祖母の遺体は山の頂上で火葬しました(簡単な縦穴式の火葬場でした)。翌日、家族だけで骨つぼに骨を納めて帰りました。
翌年の昭和二十一年二月八日に弟の康裕が生まれました。生まれた時、体重は二千グラムと小さく、ほとんど泣きませんでした。昭和二十二年の正月、胎内被爆の影響があったのか、突然せきが止まらなくなってしまいました。急いで医者に連れて行きましたが簡単に肺炎と診断され、それからすぐに亡くなりました。生後十一か月というと、早ければ歩き出す子もいますが、康裕は結局歩くこともなく亡くなりました。
また、祖母が亡くなった後、父の看病は母や祖父がしていましたが、その父も被爆から十数年後に亡くなりました。
現在、平和記念公園内の原爆供養塔には、約七万柱の氏名不詳や一家全滅などで引き取り手のない遺骨が納められています。私の家族は、それに比べると、お墓があって子や孫が供養してくれるので、とても幸せなことだと思います。
●戦後の生活
私は中学を卒業するとすぐ広島に出て、住み込みで働き始めました。これからの時代、義務教育だけではいけないと思い、定時制の夜間学校にも通いました。二十歳を過ぎてからやっと祖父と母を呼び寄せることができ、三滝に小さな家を借りて住みました。昭和三十六年に疎開先で縁のあった妻と結婚した後も、苦労しながら生活し、一生懸命に働きました。その後可部へ移り住み、長男、長女、次女の三人の子どもに恵まれ、今では孫も四人います。
私が初めて被爆していることを子どもに話そうと思ったのは、神戸大学大学院に通っていた長男が帰省し、結婚したい相手がいると告げた時でした。それまで被爆した事を子どもたちに伝えていなかったのは、当時は被爆者の子どもと結婚すると、生まれる子どもに影響があるなどの偏見があったからです。
私は三人の子どもたちを集め、「隠したんじゃないけど、ずっと言っていなかったけど、実はお父さん被爆者だよ」と話しました。話が終わると同時に正面に座ってずっと聞いていた長男が、目に涙を浮かべながら、「何で今まで黙っとったん、何で早く教えてくれんかったん、隠すことないじゃないか」と言ってくれたのです。私は思わず息子の手を握りしめました。私はそれまで差別的なことを見たり聞いたりしていただけに、今までの人生のなかで、この時ほど嬉しかったことはありません。
●病気について
入市した直後には、特に体への影響を感じることはありませんでした。その後、就職してから非常に疲れを感じるようになりましたが、そのまま働いていました。
しかし、平成九年になって、夜寝ていると突然吐き気に襲われ、一週間意識を失い二か月ほど入院しました。すい臓に異常があるというので、今でもずっと薬を飲み続けています。疲れるとすい臓に良くないので、体調管理には気をつけています。
●平和への思い
平成五年、叔母を通じて知り合った人を中心に五人と共に広島被爆者援護会を立ち上げました。当時は仕事をしていたため、私が実際に活動を本格化したのは平成十一年からです。被爆者の援護や慰霊祭など様々な活動を行うとともに、平和学習の講師として、修学旅行や平和学習の際、生徒たちに被爆体験を語っています。証言講話の依頼が来た時はとてもうれしく思い、今では私の生きがいとなっています。
平和を考える時、私は原爆だけの問題ではなく、温暖化など地球全体の問題に取り組んでいかなければならない時代だと思っています。温暖化によりあと数十年後には、海面上昇のせいで住む場所を失う人が出てくるのではないかと言われています。これらの問題は、すべて人間が作り出した人災です。本当の平和を築くため、こうした問題にも関心を持ってもらいたいと思い、私の被爆体験を子どもたちに語る時、併せて話すようにしています。
今戦争をしたらもっと悲惨な状況になるという話を聞きます。そういうことをさせないためにも、原爆の恐ろしさ、悲惨さというものを本当に知ってもらうことが必要と思います。私が伝えることができるのは、今しかありません。体とうまくつきあいながら、活動を続けていきたいと思います。
追記
私の信条
一 人の失敗を見て笑ったり、あざけったりしない優しさをもつ。
二 自分が嫌なことは、きっと相手も嫌なのだ。 |