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幼い日の記憶 
長尾 芙水子(ながお ふみこ) 
性別 女性  被爆時年齢 4歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2015年 
被爆場所 広島市平塚町[現:広島市中区] 
被爆時職業 乳幼児  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の生活
当時、私は父と母、そして二十歳だった姉と広島市平塚町の順教寺近くに住んでいました。姉の他に、十二歳と九歳の兄がいましたが、二人とも戦時中は、母の親族が住んでいる大崎上島へ縁故疎開していたため、一緒に暮らしていませんでした。

戦争中というと、ご飯を満足に食べられなかったとよく言われていますが、私は当時四歳と幼かったので、食べ物がまずいとか、量が少なかったという記憶はありません。被爆前の生活の記憶では、兄が疎開する前のことですが、亥の子という行事で、鬼のお面を被った長兄が突然入ってきたので、私はそれに驚いて母親がいる台所へ飛び降りたということをうっすらと覚えています。

また、平塚町の家の裏に、私たちと似たような家族構成の家がありました。その家の子どもたちと私たち兄弟姉妹は、よく一緒に遊んでいました。そして縁とは不思議なもので、私が小学二年生の時にその家族の長男と私の姉が結婚したため、今は親戚付き合いをしています。小さい時から名前で呼び合っていたので、七十、八十歳になってもお互いに「何々ちゃん」、「何々君」と呼んでいます。
 
●原爆投下の日
八月六日、私は母と一緒に家にいました。

母に「いつまでも寝てないで早く起きなさい」と言われ、寝巻きを脱いで服に着替えている途中でした。突然外がピカッと光りました。私は光った直後どうなったかは覚えていませんが、後で母に聞いた話では、家の屋根が飛んでいったそうです。家の中にいたので、やけどはしませんでしたが、私は爆風により割れた窓のガラス片が胸に刺さり、母は足に傷を負いました。

母は、家のレースカーテンを破ってひも状にして、私を背負い避難しました。鶴見橋を渡り、比治山へ向かっている最中、女性に名前を呼ばれ、「助けて。助けて」と、声をかけられたそうです。その女性は全身やけどをしていて、顔を見ても誰なのか分かりません。女性が名乗って、ようやく近所に住む知人だと分かりました。しかしその時母は足をけがした状態で、私を背負っていたため、助けてあげることができませんでした。母はいつもこのことを思い出して悔しいと言っていました。
 
●比治山の惨状
比治山には防空壕がいくつかあり、その中の一つに私たちは避難しました。比治山にいた時のことは、今でも覚えています。けがの治療をしてもらうために、母は私を背負って並んで待っていました。その間にもバタバタと人が倒れてゆくのです。周りには死んだ子どもを抱きかかえている母親や、全身けがをした人、既に亡くなっている人がたくさんいました。

母から「見なさんな。見なさんな」と言われ、手のひらで顔を隠していましたが、幼い子というのはどうしても見てしまうもので、指の間からのぞき見ていました。死体は、一人ひとり荼毘に付すことができない状況でしたので、山のように積まれ、燃やされていました。その死体を焼く臭いはとても臭く、魚を焼く臭いに似ていました。その臭いを思い出してしまうので、長い間焼き魚を食べることができませんでした。

救護所で長い間並んでやっと治療を受けることができ、胸に刺さったガラスを全て取り除いてもらいました。ガラスは右胸に刺さっていたのですが、その痕は今でも三センチメートルほど残っています。
 
●家族の被爆
原爆投下から二日後のことです。父が比治山まで私たちを捜しに来て、再会することができました。父は広島市宇品町で陸軍関係の仕事に従事しており、原爆が投下された時は朝礼の途中だったそうです。原爆の熱を背中で受けたため、やけどした背中の皮膚はズル剥けの状態でした。

姉は父と同じ勤務先でしたが、父とは違う場所にいたためか、やけどなどはありませんでした。姉と再会したのはいつ頃だったかは覚えていません。
 
●被爆後の生活
私は覚えていないのですが、母の話によると、原爆投下の日に比治山から平塚町方面を見渡すと、炎が上がっていたらしく、住んでいた家は焼けて無くなってしまいました。

比治山の防空壕で十日くらい過ごし、その後、母の親戚がいる大崎上島に避難しました。そこで縁故疎開していた兄たちとも再会しました。

大崎上島に避難している時、父の背中の治療をしたのですが、じゃがいもをすりおろし、それを背中のやけど部分に付けて包帯を巻き、それを一日に何度も新しいものに付け替えるという、不思議なものでした。しかし、その治療が良かったのか、父の背中のやけどは治りました。

数か月間大崎上島にいましたが、木材屋に勤め始めた父の関係で、賀茂郡竹原町(現在の竹原市)へ移り、私が幼稚園から小学一年生まで暮らしました。竹原町の次は再び父の仕事の関係で、広島市舟入町へ引っ越しました。その時、県が県営住宅を建てており、そこで家族と一緒に暮らしました。父は一生懸命に働いてくれていたのですが、勤めていた木材屋が倒産してしまいました。戦後、父は仕事がなくて苦労していたようで、私たちも貧しい日々が続きました。
 
●健康への被害
被爆した人が、その後、がんや白血病などの病気になったという話をよく聞きます。私も乳がんになり、今年の二月に手術を受けました。私が乳がんになったことと、被爆には因果関係があるだろうと病院の先生に言われました。父は被爆後十年経ってから胃がんを発症し、六十一歳という若さで亡くなったのですが、それも被爆が原因ではないかと私は思っています。母は父のような病気になることもなく、七十八歳まで生きました。
 
●結婚と出産
被爆者の中には原爆の放射線による影響のため長く苦しみ、被爆者ということだけで結婚を断られたという人もいました。私は広島の百貨店に就職したのですが、同僚の男性は、母親から「被爆した女性とは結婚するな」と言われていたそうです。

私は三次市出身の男性と結婚しました。被爆者ではない主人に、私は被爆者であることを結婚する前に話したのですが、主人は気にすることもなく、受け入れてくれました。そして、娘も二人産みました。

被爆二世は、遺伝が原因で病気になる可能性があるということも言われていました。けれども私の娘は、たとえ親が健康でも病気になる時はなると、割り切った考えをしてくれていました。私は主人が亡くなってからは、一人で暮らしているのですが、娘が二人とも近所に住んでいるので、何かあればすぐに来てくれます。
 
●平和への思い
日本は今、日本国憲法第九条を改正しようという、おかしな方向に向かおうとしています。この九条が存在していたからこそ、戦後から今まで平和を保ってきました。改正され、九条が無くなったら、日本は再び戦争をしてしまうのではないかと、日本から平和がなくなるのではないかと思い、つらい気持ちになってしまいます。物事を変えようとする人がいたとしても、これだけは変えてはいけないと、私はそう思っています。 

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