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学徒動員被爆から生還して 
根角 鈴子(ねかど すずこ) 
性別 女性  被爆時年齢 15歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2009年 
被爆場所 巣守産業(株)(広島市水主町[現:広島市中区]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島市立第二高等女学校 2年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の家族構成
私は、昭和五年三月に安芸郡倉橋島村の重生(現在の呉市倉橋町)で次女として生まれました。父は明治二十七年生まれの貨物船のオーナー兼船長で、母は明治三十四年生まれの専業主婦でした。

大正十二年生まれの長女、大正十四年生まれの長男、昭和二年生まれの次男、昭和七年生まれの三男、昭和九年生まれの四男、昭和十二年生まれの三女の七人きょうだいと両親の九人家族で仲良く暮らしていました。

昭和十七年に父は「もう年だから船の仕事は引退したい」と言って船を売り、それを元手に広島市の草津浜町の銭湯「大潮湯」を買取り、以後は一家全員で銭湯の仕事に従事しました。

父は翌年召集され、ジャワ島(インドネシア)で軍用船の船長として勤務するために長崎県の佐世保港から出征し、長女も上海の警察官と結婚して上海に移り住み、二人は原爆には遭いませんでした。
 
●学徒動員
私は昭和十九年三月に草津国民学校高等科を卒業して四月に市立第二高等女学校に入りました。昭和二十年四月に二年生に進級した私たちは、水主町の巣守金属工業株式会社という軍需工場へ学徒動員で通い、飛行機の部品を作っていました。

朝早く自宅を出て草津駅から広島電鉄の電車に乗り己斐で市内電車に乗り継いで土橋の電停で降り、そこから橋を渡り県庁の前を通って、かなりの距離を歩いて工場へ通っていました。

工場の作業内容は、鉄板をぱちんぱちんと切り、熱処理でたたいて薄く延ばし、それを筒にして、最後には箸ぐらいの細いパイプにして、そのパイプから飛行機用エンジン冷却機を作っていました。私は機械の横に座って、箸ぐらいの細いパイプにする作業の担当でした。

工場の中は、はっきりとは覚えていないのですが、私たちから見るとおじさんと呼ぶような年齢の男性の工員さんが七人くらい、女性の工員さんが十人くらいと私たち五十人の女学生で操業していました。

工場は木造の二階建てで、一階が工場、二階が教室になっており、道を挟んで事務所がありました。敷地はかなり広かったと記憶しています。
 
●被爆状況
八月六日の朝は、二階の教室で定例の朝礼があり、担任の先生から「この戦時下に今日は何をだらだらしているの」と、ひどく怒られて皆がしゅんとなっていました。そして操業時間が近づいたので一階の工場へ降りたのですが、すぐに警戒警報が出て、全員で地下の防空壕に避難しました。しばらくして警報が解除されたので工場に戻り、機械の横に座ったと同時に、私の右側にある大きなモーターとヒーターのスイッチがオレンジ色のような何とも言えない色に「ぼっ」と光りました。工場には機械がたくさんあったので、それが一斉にショートしたと思った瞬間に私は気を失っていました。

どのくらい気絶していたのかわかりませんが、意識が回復していく中で突然声が聞こえてきてきました。わんわんと泣きわめく声、「助けてくれ」、「お母ちゃん」と叫ぶ声がものすごくて地獄のようでした。目を凝らすと、辺りは真っ暗で、建物の壁も機械も吹き飛ばされていて、私の体は大きな機械の下に埋まっていました。何が起きたのかわからないのですが、このままここにいてはだめだと思っていると、五十メートルぐらい先に小さな明かりが見えました。喧噪の中を必死で光へ向けてはって行き、ようやくたどり着くと、光の正体は崩れ落ちた屋根と防空壕の境から入ってくる外の明かりでした。そこから引っ張り出してもらい外に出ることができましたが、出て一瞬「あれ、夜になっている」とびっくりしました。辺りが煙とほこりで五メートル先も見えませんでした。助け出された時は体中、顔も頭も傷だらけで、作業着は白い上衣が血に染まっていました。逃げろと言われてもどこに行けばいいのかわからず、川土手に道があるのでそちらに向かいました。

逃げる途中で四人の同級生に再会し、その後一緒に逃げました。けがをしているから千田町の赤十字病院で一緒に診てもらおうということになり、一面火の海の中を火を避けるようにして病院を目指しました。しかし、患者がいっぱいで見てもらえないらしいということを伝え聞いて受診をあきらめ、御幸橋を通って宇品に逃げ、一緒にいた同級生の家が御幸通三丁目にあったので、皆でそこに向かうことにしました。火が迫ってきてもいざとなったら川に飛び込めるようにと川土手沿いの道路を通りました。私の顔や頭の傷からは血が流れ出ており、目の中へ入らないようにハンカチで拭きとってもすぐに真っ赤になり、それを絞ってはまた拭くということを繰り返しながら必死で逃げました。

道には死体とけが人が多数で、注意深く見ていたわけではないのですが、それでも強く記憶に残っています。川にはまだ、そんなに多くの死体はありませんでしたが、川に浮かんだ木の上で手を上げ「助けてくれー」と叫んでいる人がいました。男の人はどの人も頭だけが黒くて、あとは皮膚がむけてぶら下がり、それを引きずっていました。男の人は皆黒い帽子をかぶっていると誤解し「何で頭だけ黒いの」と思っていました。男も女も皆さん服は着ていましたが、黒いところは燃えて無くなり、白いところだけが燃えずに皮膚にくっついていました。

何度も「水をくれ」と言われましたが、逃げるのに一生懸命でしたので、申しわけないと思いつつ、水をあげてはいません。倒れたまま「助けてくれー」と言っている人も多かったのですが、何もできなくて、今でもあの人たちのことを思うと心が痛み、かわいそうに思えてなりません。血まみれのおばあさんには「お姉さん、ここに孫がいるから助けてください」と頼まれたのですが、自分も子どもなので助けることができませんでした。それが今でも一番の心残りとなっています。
 
●避難生活
そして、やっとのことで同級生の家の近くに着いたのですが、今の「県病院前」の電停の近くにあった幼稚園が臨時の救護所になっていると聞いて、皆で治療に行くことにしました。しかし、行ってみて驚きました。園庭をはみ出して負傷者が地面に直に寝かせられていました。その負傷者は赤チンの液をバケツに入れて、ほうきのようなもので次々と塗られていました。体の一部が切れてぶら下がったままぴくぴくしている人など、見るも無残な大やけどや大けがの人が数え切れないぐらいいました。私たちはそれを見た瞬間に恐ろしくなり、同級生の家へ飛ぶように逃げ帰りました。余りに負傷者の状態がひどくてとても見ていられませんでした。同級生の家に到着後、傷で血まみれの体を同級生のお母さんに拭いていただきました。その時は、辺りがずっと暗かったので夜か昼かわからないのですが、今考えると夕方にまではなっていなかったように思います。街の中はとても通って帰れるような状況ではなく、それからしばらくの間私たちは同級生の家でお世話になりました。原爆のせいなのか、むかむかしてずっと気分が悪く、はうようにトイレに行っては毒を出すために吐くという毎日でした。とても食べられるような状態ではないので、ほとんど食べていませんし、頭もふらふらでしたから、日数はよく覚えてはいませんが、一週間くらいいました。そして、運よく同級生の家に下宿しておられた将校さんが宇品から井口まで船を出してくださったので、私は家へ帰ることができました。

母は、私の顔を見て「幽霊じゃ」と言い、飛び上がって驚きました。毎日広島の中心部へ私を捜しに行っていても見つからないので死んだものと思い、葬式の支度のことばかり考えていたところに私が帰って来たのでした。

同級生の家は広い道路に面していたので、次々と通り過ぎる軍隊のトラックが死体を目いっぱい載せて、中には死体が荷台からぶら下がって落ちそうになったままで、毎日何十台も走って行ったのが印象に残っています。そして、宇品で船に乗る時のことですが、死体が集められている場所があり、そこにトラックが来ては死体を積み重ねて行くので死体が山のようになっていました。
 
●家族の被爆状況
昭和二十年当時、長男は、西練兵場近くの中国軍管区輜重兵補充隊(中国第一三九部隊)にいました。この部隊は、食糧・被服・武器・弾薬などを戦地へ輸送・補給する業務を行っていて、通称「十部隊」と言っていました。

八月六日は、朝から警戒警報が出ており、長男は警戒のため外へ見回りに出ていて警報解除を受けて兵舎へ戻ったとき、すぐ上空で原爆が爆発しました。兵舎が爆風で一瞬のうちにがれきとなって出火し、長男の足が柱か何かの下敷きになって出られずにもがいていたところを上等兵に引っ張り出していただき一命を取り留めました。

その後は広島第一陸軍病院戸坂分院へ連れて行かれて五日間野宿した後、山口県の広島第一陸軍病院櫛ヶ浜分院に送られました。そして、終戦後の二十日に病院が解散になり、毛布一枚と竹の杖が支給されて帰宅命令が出たのですが、櫛ヶ浜の駅では満員で汽車に乗れず、そこで一晩野宿して翌朝一番の汽車に乗り己斐駅に着きました。そこから歩いて自宅に向かったのですが、もう足は腐り、ウジが体中にわいていて歩けるような状態ではありません。杖に体重を預けてはうようにして進み、自宅近くの草津橋で倒れていたのを、近所の方が見つけ「大潮湯のお兄さんが倒れている」と自宅に知らせが入り、次男と三男が連れて帰りました。

その日の母はあいにくと広島市中心部に長男を捜しに出ていて、夜八時頃、草津の自宅に帰って来ました。帰っていて寝かされていた長男に母が向き合った時、その一瞬だけ長男が目を開けて母を見て再度意識を失い、その晩苦しんで亡くなりました。親に会いたい一心で戻って来たのに、はかないことでした。

次男は、矢賀町にあった広島鉄道局広島工機部の工場で旋盤工として働いていました。原爆で工場は焼けなかったのですが、広島市内が一面火の海になっており、火を避けながら、歩いてその日のうちに自宅まで帰りました。次男はいつの間にか鉄道局を辞めて風呂屋の仕事を継いでいました。その後も元気というほどではないですが、どうにか生きています。

草津国民学校高等科一年生の三男は、朝早く起きて母と二人で広島市中心部の建物疎開の作業場所に行き、大八車に風呂用の薪を積んで帰る途中、庚午辺りで原爆に遭いました。爆心地から離れていたので二人とも助かりました。

国民学校五年生の四男は、授業へ出ていて無事でした。国民学校三年生の三女は、母親が戻るのを家で一人待っていて、爆風でガラスの破片を全身に受けましたが、幸いに大きなけがはありませんでした。
 
●その後の療養生活
八月十五日の朝は、倉橋島のおじが「今度は草津に空襲があるから島へ疎開しろ」と言って船で突然やって来たので、急いで疎開用の荷物を取りまとめて島に帰りました。島に着くと周りの人は皆、今日は大事な話があるというようなことを言っていましたが、私は船から荷を上げるのに一生懸命で、皆が何のことを言っているのかわからないままでした。そのため、玉音放送を聞くことができず、荷を降ろし終わってから戦争が終わったことを知りました。「ああ、よかった」と一番に思い、ほっとしたことを覚えています。

原爆投下一か月後の頃から原因不明の四十度の熱が続きましたが、終戦後の田舎のことですから薬などはなく、また、食べ物も全然喉を通らないので、口にするのはほとんど井戸水だけという状態でした。痩せ細っていく私を見て、周りが「このままでは死ぬ」と言っていましたが、家族は体に良いと聞けば、戸板で代用した担架に私を乗せ連れて行ってくれました。お坊さんのお灸が良いと聞いた時には、船に乗せて連れて行ってくれました。その時は、頭の先から足の先まで一時間ぐらいお灸をすえてもらいましたが、良くはなりませんでした。お坊さんから母へは「いくらお灸をすえてもこの子は長く生きられない」とそっと言われたそうですが、母はそれでも私を助けたい一心でその後もお灸をずっと続けてくれました。その甲斐もあってか徐々に快方に向かい、どうにか現在まで生き延びることができていますので、母には大変感謝しています。熱は四十日でどうにか下がったのですが、寝たり起きたりの生活がその後二十日ほど続いてから床上げしました。

二十一年一月頃に学校から「四月まで学校へ通ったら卒業証書を渡すので、学校へ戻ってもらえないか」と連絡があったことを家族から聞き、二月頃から学校に通い始め、二か月くらい通って卒業証書を手にしました。当時は、原爆のせいで女生徒の誰にも髪の毛がなく、誰もが頭にふろしきをかぶったような格好をしていたのが印象的でした。

原爆から助かった同級生は十五人くらいで、担任の先生も生徒と一緒に江波へ逃げて助かりました。
 
●戦後の生活
卒業後は家の仕事を手伝っていました。原爆で壊された銭湯の窓ガラスなどはすぐに修繕しましたが、水道が復旧せず、また、水道が復旧してからも水道料金が高いのでなかなか営業が再開できませんでした。おじがモーターを買って来て据え付け地下水を吸い上げるようにしてくれて、また、父も六月に帰って来たので、夏頃から営業を再開しました。燃料は兄が馬車で「のこくず」(木材を加工する時に出る目の細かい木屑。オガクズ)を集めていました。

この頃には家の仕事が忙しくなり、私自身の健康も回復していたので、原爆の後障害や病気についてはあまり心配していませんでした。

その後、宇部曹達工業株式会社(現在のセントラル硝子株式会社)に勤めている人と見合いをして、昭和二十八年四月に二十三歳で結婚しました。主人は中学生のとき学徒動員でその工場へ行き、終戦後もそのままその工場に就職していました。主人の兄は比治山で兵隊として被爆し、姉のご主人も八月五日に入隊して広島に来て、翌六日に原爆で亡くなっているので、原爆については家族の理解もあり、結婚に支障はありませんでした。宇部に新居を構え、昭和二十九年二月に長男が生まれました。原爆が子どもにまで影響があることは知らなかったので、長男については何の心配もしていませんでした。

昭和三十一年に主人が会社を辞め、家族で広島に移りました。宇部では原爆の情報が余り入って来ないので、被爆者健康手帳のことは全然知りませんでしたが、広島に来て被爆者健康手帳のことを初めて知り、すぐに手帳を申請し、昭和三十五年九月一日に取得しました。

昭和三十七年二月に長女が生まれました。原爆の影響についても、年を重ねていくうちにいつか病気として出るのではないかと常々心配しておりましたが、昭和五十六年に乳がんとわかり、赤十字病院で手術をしました。長男が結婚する前のことで、やはり原爆のせいでがんになったと思いましたので、それは悩みました。それまでは子どもに被爆体験は一切話してこなかったのですが、子どもには被爆体験を話しておかなければいけないと考えるようになり、ちょうどよい機会かもしれないとも思い、初めて二人の子どもに被爆体験を話しました。話をしたことで肩の荷が下りました。

その後、平成十七年十一月に甲状腺がんとわかり、高齢を理由に体力面からがんの手術を見送る人が多い中で、先生から大丈夫だからと手術を勧められ、中電病院で手術をし、その後の経過は良好です。
 
●戦争と平和
戦時中はお米の代用食として稗や粟、大豆の配給があって、私の救急袋の中にはいつも大豆を入れていましたが、終戦間際には本当に食べる物がなくて、いつもおなかをすかせていました。しかし、「おなかがすいた」と口外することは許されない時代でしたので、空腹をがまんして休まずに工場へ行っていました。

私たち生徒は、先生から「絶対に日本は負けない、昔から日本の国は神風が吹く、だから一億一心で働きなさい」と教わり、また「広島は軍隊が守っているから米国は爆弾を落とせない」と教わりました。それらを信じて休まずに働いていましたが、空襲の代わりに原爆を落とされ、十数万人もの命が一瞬に消えました。

原爆の焼け跡は、足の踏み場がないぐらいひどいものでした。旧市内ではガラスの瓶も高熱で溶けて丸くなって、いたる所で石ころのようにころころと転がっていました。

あの光景は、今の平和記念資料館の展示どころではありませんでした。私が展示を見たのは戦後すぐの頃と何年も前のことですが、実際に被害に遭った者が見たら「こんなものではない、もっとひどい」と言うでしょう。あの展示だけで原爆の悲惨さを教わるのでしたら、悲惨さが十分には伝わっていないように思います。

あの当時、私と同年齢の人たちが学徒動員などで短い生涯を終えて行きましたが、私は運よく原爆から生き残ることができました。原爆ドームと平和記念公園のところには多くの学徒の慰霊碑があります。私にはこの碑が動員学徒のお墓のように思えます。毎年八月六日の平和記念式典前後にお参りするのですが、この碑に多くの友人や同年代の人が祀られていると思うと、本当にかわいそうに思えて涙が止まりません。

現在の私は、毎日平和に暮らせることを感謝して暮らしています。本当に、現在のこの幸せがいつまでも続いて欲しいと思います。あの戦争のむごい体験から思うのは、二度と戦争を起こしてはならないということです。
                      

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