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言いたかったこと 
峰雪(ほうせつ) 
性別 女性  被爆時年齢 22歳 
被爆地(被爆区分) 広島(間接被爆)  執筆年 2008年 
被爆場所  
被爆時職業 主婦 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前
私は広島の陸軍被服支廠へ行っていましたが、その後、佐伯郡観音村佐方(現在の広島市佐伯区)の農家に嫁いできて、主人の両親、主人の兄弟姉妹と一緒に住んでいました。兄弟姉妹はたくさんおり、十人くらいいたように思います。

当時は、我が家も主人が戦争へ行っていましたし、近所にも男手がなく、掘りかけの防空壕がたくさんあったことを覚えています。
 
●八月六日
その日、私は精米へ行くため米を持って家を出ました。その途中、突然ピカッと光って音がしたので、私はすぐ伏せました。当時のことですから周りでは、「今のは爆弾が落ちたのだ」と言っています。それを聞き、米を持って走っていると、おばさんが「早く帰ってみなさい。どこかに爆弾が落ちたよ」と言うので、あわてて家にかけ戻りました。

家に帰ってみると、爆風で障子も窓も吹き飛び、古い家ですから、天井からは、すすが落ちていました。これはどうしようかと考えるとともに、とにかく子どものところに行かなければと思い田んぼに急ぎました。その日は、暑くなる前に田んぼの草取りをしようと父と母が私の三歳の長男を連れて、朝早くから出かけていたのです。田んぼに行き、「おじいさん、おばあさん」と呼ぶと、「わしらは、ここに伏せていた」という答えが返ってきました。皆元気でいることを確認していると、何かよくわからないが焼けかすや灰のような物が降ってきました。おじいさんが「山火事かもしれない」と言うので、山火事なら大変だと思いながら、子どもを背負い走って戻りました。

家に着いて、とにかく家の中を片付けようと思いましたがどうすることもできません。戸が吹き飛んでいましたし、その時は放送も何もなく、静かで何が起きたのかもわからず、ただおろおろするばかりでした。

その日の夜になって、広島市の愛宕町に住む親戚のおじさんが突然来られました。あの時は、真っ白い人が外へ立っていたからびっくりしましたが、それは、やけどで全身に包帯を巻かれたおじさんでした。おじさんは、奥さんと二人の子どもを捜したが見つからず、汽車も何も通らないので、ここまで歩いて来たということでした。「何か食べますか」と聞いても「何も要らない」と言い、もう居ても立ってもいられないという様子で、「今からまた三人を捜さなければいけない」と言います。それではということで、私と弟が一緒に捜しに行くことにしました。

おじさんがはだしなので、わら草履を履かせてあげようとしましたが腫れがひどくだめでした。

線路を伝ってずっと歩き、途中でおじさんが何度か倒れそうになったのを二人で支えながら進みましたが、そのうち煙などでどこがどうなっているのかわからない状況になりました。おじさんもどうにかしなければ倒れそうな状態になり、草津を少し先に行ったあたりにちょうどお寺があったので、おじさんを預かってもらおうとそこに行きました。そこには、既にたくさんのけが人がおられました。翌朝迎えに来ることにしておじさんをお寺に預かっていただき、弟と二人で帰りました。
 
●救護奉仕
家に帰って、翌日の明け方のことです。婦人会の人から、国民学校へ奉仕に行くようにと連絡が回ってきました。当時は放送も、回覧板もないので、次々に言葉で伝えていました。

とにかく若い人が出てくださいと言われ、若いといえば二十二歳の私しかいませんから、お寺に預けたおじさんのことを弟に頼み、三歳の長男を連れて、皆と一緒に国民学校へ行きました。国民学校では校舎中の机が全部片付けてあり、しばらくして、トラックがけが人を運んできましたので、けが人を校舎の中へ寝かせました。うなり声をあげる人や涙を流している人、皆何もできず、ただ「水、水」と言うばかりです。食べるものも薬もないので、私たちは、小さなコップや牛乳瓶のような物に水を入れて走り回り、やけどをした人に少しずつ飲ませてあげました。やけどをした人の「水をくれ」といううめき声が、いまだに耳に残っています。

うっかりやけどをしている人の皮膚にさわると、つるっとはげるので、次からはタオルを持っていきました。

まだ息がある人にも、やけどからウジ虫がわき、寝かせている板の上にはい出ます。小さな子には、「こっちへ来てはいけない」と言いました。ウジを取ってあげたかったのですが、簡単には取れませんでした。

そして、どこの誰か、名前もわからない人が、次々に死んでいかれました。校庭の近くの空地に穴を掘り、死体を焼きました。高齢者と女性しかいないので、死体をシーツでくるんで、二、三人で抱えて大八車に乗せ、その空地に運びました。亡くなっていなくても、しゃべれない状態の人は、死人扱いされたことが本当にあったそうです。

後に、そこへ碑が建ちました。亡くなった方の名前も書いてありませんし、今では、それが何の碑なのか、知っているのは、ほんのわずかの人だけになっています。私には、そのことがとても気にかかっています。

あの時は、死体をいちいち火葬場へ運ぶことができないので、学校とかお寺、集会所などで焼かれたそうです。

奉仕活動には、婦人会の何人かが朝、夕方、夜といった具合に交代で参加し、私もその後、二回か三回奉仕に行きましたが、いつしか行く必要がなくなりました。

お寺に預けていたおじさんも、弟が行った時には亡くなっていました。弟はおじさんの家族を捜しましたが、どこにいるのか結局わからなかったそうです。みんな犠牲になったのでしょう。それから後も、弟は何日か市内へ奉仕活動に行きました。

その後、元気だった弟も熱を出して病院に通うようになり、肺の病気でその年の九月に短い生涯を終えました。
 
●その後
昭和二十二年にようやく主人が、兵隊から帰ってきました。マラリアにかかっていて、しょっちゅう熱を出し苦しんでしました。お医者さんに行っても、この熱病はどうすることもできず、そのうち治るからと言われるぐらいで、結局、三年間は病気が治りませんでした。

頑固な人で、役場から兵役の年数に応じて国からの下さりものがあるので来るようにと案内が来ても、「今、国がどうなるかわからないのに、そんなものもらわなくてもよい」と言って結局行きませんでした。

長男は鼻血をよく出し、なかなか止まらないのでどうしようかと思うこともしょっちゅうありました。一軒しかないお医者さんへ行って、鼻の中を薬で焼くしか治療方法がなく、熱もよく出ました。鼻血は社会人になってもよく出て、今でも時々あります。長男は、私が被爆者の看護をする時も後をついて来ましたから、今思えば、原爆のせいかもしれないと、近所の人たちも言っていました。

私は貧血がひどくて、何度も流産しましたが、長男が生まれて八年後に長女を出産しました。それからは何とか元気になりました。

みんなが被爆者健康手帳の申請をするので、主人に「私も申請しようか」と言ったら、「ばかたれ。国が倒れかけているのに、手帳はもらわんでいい」と怒られました。

私が国民学校で奉仕活動したことを誰かに証明してもらえば、手帳をもらえるのでしょう。私は先が短いからもう要りませんが、できることなら当時三歳だった長男にもらえたらと思います。胆のうの手術をしたり、いろいろと内臓が悪いらしいのでお願いしたいです。
 
●和歌・俳句
私は、和歌や俳句をやっています。

同級生が特攻隊で逝った時のことや、親戚の人が船に乗ったところをやられて海へ沈んだことなど、いろいろな思いをみな歌にしています。

その一部を紹介し、平和を祈って、筆を置くことにします。
 
 
 薫風のあふるる平和公園の
     碑に人々の絶ゆることなし
 
 放射能ふくむか知らねこの雨を
     ためてとどめて稲田の米に
 
 特攻と言ふ名かなしや童顔の
     思い出の君十と七才
 
 戦争のふかでかなしきシベリアの
     地に眠れゐる吾らの同輩
 
 兵数多のせて発ちゆき帰らざる
     艦船どこの海に眠るや
 
 珠の子の母に託せし筆のあと
     涙せぐくむ江田島の旅
 
 数多なる若き命のあるものを
     散りて淋しき古鷹山よ
 
 丘の辺にドック見下し立ちぬれば
     呉の港は波しずかなり
 
 水平の彼方の海に眠(ねむ)りしや
     帰らぬ君は今なほ若し
 
 米たらぬ声は地鳴りの如きこゆ
     爆音今日も天をゆるがす
  

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