●被爆前の生活
私は、佐伯郡厳島町(現在の廿日市市宮島町)に両親と祖父と一緒に住んでいました。祖母は昭和十九年に亡くなり、二人の兄は、兵隊と進学でそれぞれ家を出ていました。家業で土産物屋を営んでおり、従業員も三人おりました。
当時私は十四歳で広島女子高等師範学校附属山中高等女学校の三年生でした。二年生の終わり頃から動員学徒として広島市南観音町の三菱重工業広島機械製作所に行っていました。鉄板でできたロケットの羽根のようなものがあり、それを見本にしてブリキのようなものをやすりで整形する仕事でした。工場に行く以外にも農家に麦刈りなどの手伝いに行く日もあって、勉強はほとんどしていませんでした。戦争中なので、夜に警戒警報がでると電灯にカバーをかけたり、食事は配給のコーリャンなどで白いご飯は食べられない生活でした。
●八月六日
六時三十分頃の船に乗って、宮島口駅から電車で己斐駅まで行き、己斐駅から歩いて南観音町の三菱重工まで行きました。あの頃は、夏服でも白色ではなく国防色に染めて、もんぺをはいていました。工場二階の片隅で着替えて、八時三十分から作業開始でしたが、まだ時間があったので椅子に座って友達と話をしている時でした。
突然何とも言えないオレンジ色のような光が見えました。その時にはまさか原爆ということはもちろん分からないし、広島は空襲もほとんどなかったので焼夷弾の経験もなかったのですが、何かが落ちたということだけは分かりました。ものすごい音がして、衝撃が同時にやってきました。その後は気を失ったのか分からなくなりました。他の人がいつ逃げたのか分かりませんが、気がついた時には周りにいた多くの人はみんないなくなっていました。柱などが落ちている中で、たまたま隣にいた友達が一生懸命上を見ているので私も見てみると明かりが見えたので一緒に出ました。そして階段を下りて行きました。階段には割れたガラスがいっぱい散らかっていました。履いていた下駄もなくなっていてはだしで下りたのですが、不思議とけがはしていませんでした。私は建物の中にいたので熱線によるやけどもなく、また、窓側ではなかったので割れたガラスでけがをすることもありませんでした。
階段を下りたところに先生がいて、防空壕に入るように指示されました。そのすぐ後に「帰れると思う者は帰れ」という命令が出たので十人くらいの友達と一緒に川土手に出ました。普通なら己斐駅から電車で帰るのですが、己斐の方は火災で行くことができませんでした。みんなで海岸の方へ向かい、福島川にかかる庚午橋を渡りました。庚午橋は燃えてはいませんでしたが、まだ作りかけで、川の途中までしかできていなかったので渡し舟のようなもので橋まで行って、上から引っぱってもらったり下から押してもらってようやく橋に登りました。片方の足がやっと乗せられるぐらいの丸太で、水面から高いのでとても怖かったのですが、何とか渡って対岸へたどり着きました。
電車も動いていないので、廿日市駅までずっと歩いて行きました。一緒にいた友達の一人は佐伯郡玖波町(現在の大竹市)の人だったのですが、その日は玖波町から多くの人が建物疎開作業のために広島市へ来ており、その友達の家族も参加しているということでした。廿日市駅では、「玖波の人はあちらに行ってください」とメガホンで案内があったので、その友達とはそこで別れました。私ともう一人の友達は廿日市駅から電車で宮島口駅に向かいました。宮島口駅近くに住む親戚の家に水をもらいに寄ったところ、父が私を捜しに広島に行くために宮島口に来ていると聞いて、偶然にも父に会うことができました。
父は、宮島から見るとちょうど私が働いている南観音町の三菱重工の辺りにきのこ雲が見え、私はもう死んだと思ったそうです。それで、貴重な白米でおにぎりを作って捜しに行くところだったのです。午後二時頃だったでしょうか、宮島口から船に乗って宮島に帰りました。船の中では、父が持って来ていた白いご飯のおにぎりを食べました。当時、白米なんて食べられなかったので、六十九年たった今でもその時のおにぎりの味は忘れられません。
●被爆後の様子
私は被爆後すぐに解散となって避難するのが早かったのと避難経路が広島市の中心部に向かわなかったため、悲惨な被爆者を見た記憶はあまりありません。当時の国道を通って逃げたと思うのですが、庚午橋を渡って少し行ったぐらいに息子さんとお母さんがふうふう言いながら逃げていたのを覚えています。「水、水」と言われ、当時は「水を飲ませてはいけない」と言われていたのですが水を持って行ってあげた覚えがあります。とてもつらそうにしていましたが、やけどしていたかどうか細かいことは覚えていません。
黒い雨には遭いませんでしたが、橋を渡っている時に何か黒いものがぽつぽつと付いていて、何かなと不思議に思っていました。たくさんではないです。その後、廿日市から宮島口まで電車で戻る時に、いつも宮島口の駅で見かけていた人で己斐町の方の学校へ行かれていた人だと思うのですが、その人の髪が泥だらけになっているのを見ました。黒い雨にあたったのか、もう誰か分からないような泥々の髪になっていました。場所によっては黒い雨が降ったのだろうと思います。また、宮島から市内に行っていた人は帰れないので、佐伯郡五日市町(現在の広島市佐伯区)などで知らない人の家に泊めてもらって次の日に帰って来たということを後から聞きました。
●戦後の生活と苦労
戦争が終わったと聞いて、甘いものが食べられると思いました。十四歳で食べたい盛りの年頃なのに食べるものがない時代だったので、それは思いました。母のめいが岡山に住んでいたのですが、終戦後そのいとこの家にしばらくいました。岡山といってもかなり奥の田舎の方で、食べ物のない時期だったのでしばらくそこで過ごしました。しかし知らない土地で両親と離れて暮らすのは寂しく、二か月ほどで広島に戻ってきました。その年の十二月に学校に集まるよう連絡があり、行ったのは覚えています。それまでは広島市内に出ることはありませんでした。
十二月に学校に行った時には、多くの級友が転校していました。学校も賀茂郡安浦町(現在の呉市)に移転しており、私は転校したくないと思って安浦町の寮に入りそこでしばらく暮らしました。寮でも食べ物がなく、苦労しました。それから冬休みが明けて、行ってみると更に五、六人が転校していました。それで、私も三学期になってから広島女学院高等女学校へ転校することにしました。旧制の女学校を卒業した後は洋裁を習ったりしましたが、昭和二十六年、二十歳の時に結婚しました。
後から聞けば、周りは心配していたかもしれませんが、原爆によるけがもなく、爆心地からも離れていたので、健康に影響がでることはありませんでした。
●伝えたいこと
戦争はいけないということです。当時は、食べ物がありませんでした。お米もなく、ヤミ米を知っている人に買いに行ってもらったりして親も食べ物を手に入れるのに苦労していたのは覚えています。私たちの若い頃は、戦争しても絶対負けないと思って一生懸命やっていました。だから「戦争に負ける」というようなことを言う人がいると私たちは本気で怒っていました。どこの学校でもみんなそんなふうだったのですが、今考えてみると結局何にもなりませんでした。もう戦争は絶対にあってはいけません。 |