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軍隊に志願した少年が切望する世界平和 
山代 一美(やましろ かずみ) 
性別 男性  被爆時年齢 16歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2014年 
被爆場所 広島陸軍兵器補給廠(広島市霞町[現:広島市南区霞一丁目]) 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 陸軍兵器行政本部広島陸軍兵器補給廠 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●生い立ちから昭和二十年まで
私は、山県郡吉坂村阿坂(現在の山県郡北広島町)で生まれました。農業を営む父・竹一と母・マサノ、妹・八重子の四人家族でした。

国民学校高等科を卒業後、昭和十九年四月広島陸軍兵器補給廠に志願し、輸送課に配属されました。当時は必ずどこかに勤めなければいけないような時代で家にいるわけにはいきませんでした。まずは満州(中国東北部)に行こうと思いましたが、母が反対したため、近い所をと思って兵器補給廠にしました。そこは兵器の保守や修繕、各国で戦っている戦場兵器の弾薬を送る陸軍の施設で、霞町にありました。兵器補給廠から百メートル程離れた東雲町にあった寮で寝起きし、家族と離れて暮らす日々が始まりました。

沖縄決戦で輸送船が少なく国際法に違反するのですが、似島から弾薬を底が平たくなった団平船で江田島に運び、病院船に積み直す仕事などに従事していました。兵器補給廠という所は、いわゆる「月月火水木金金」で土日が無いのです。休みは任意で月に二回しか取れない状況でした。空襲警報が鳴ると、たとえ寮で寝ていたとしても、昼夜問わず即座に兵器補給廠まで駆けつけて、すべての窓を開けていました。閉めたままだと爆風でガラスが壊れて飛ぶからだと聞きました。

翌昭和二十年に私は寮長となり、毎日寮生の点呼を行っていました。また、輸送課の中隊長である北畠中尉の伝令係を命じられました。警戒警報が鳴ると兵器補給廠の本部に行って、ラジオで、B29何機が四国上空をどこに向かって飛んでいるというようなことを聞き、北畠中尉に報告するのです。

当時、広島駅と宇品港を結ぶ軍用鉄道が兵器補給廠の真横を南北に走っていたのですが、夏頃になると、線路を挟んで西側に位置する比治山に洞窟を掘る作業が始まりました。戦局が悪化の一途をたどる中で、輸送課の事務所を移転させるためです。高さ二メートル、幅四メートルくらいの、大きな洞窟でした。通常業務と同時進行しなければならないので、昼夜問わず交代で作業を行いました。
 
●被爆の瞬間
昭和二十年八月六日、私は深夜0時からの洞窟掘りの作業を終えて休みとなり、朝食をとりに兵器補給廠内の食堂に行きました。午前八時十五分、食堂の前まで来たところで、その瞬間を迎えました。今でもはっきりと覚えています。白いような黄色いようなものすごい光線が走りました。熱いというか痛いというかとにかくものすごい光でした。それから何秒か考える暇がありました。「これはおかしいな。ただ光線だけで何も無いな。ちょっとおかしいな」そうしたらガンとすさまじい爆風が襲ってきて、私は食堂の入り口まで三メートルほど吹き飛ばされました。私は頭を抱えて、腕の上へ食堂の天井が落ちてくるのを我慢しました。今思い出すと暗かったです。天井が崩れたので暗かったのでしょうか。頭を抱えてじっとしていました。辺りはものすごいほこりで、不思議なことに何も音がしませんでした。

そのままずっとこらえていると、食堂の奥の方からコトコト音がしだして「おおい、大丈夫か」と誰かが呼び掛ける声や「大丈夫です」と答える声が聞こえてきました。私は立ち上がりました。何があるか分からないので近くの防空壕に駆け込み、次の爆撃に備えていました。
爆心地から二・七キロメートル地点で屋外にいたにもかかわらず、私はやけどや大きなけがをしませんでした。比治山が防壁の役割をしたので、閃光を浴びなくて済んだのだと思います。しかも、食堂に入る前だったので建物の下敷きにならなかったのは、まさに不幸中の幸いでした。

周囲の人々が「これは何じゃろうか」「ガスタンクが爆発したんじゃないか」と口々に言い合っていました。そんな中、「輸送課北畠中尉の伝令係の山代はおらんか」という声が聞こえたので、私は防空壕から出て中尉の所へ行き、本部に行ってラジオを聞きましたが、ラジオは何も言いませんでした。広島がどうなったのか、どういう爆弾でやられたのか全く分かりません。そうこうしているうちに、リヤカーで続々とけが人が兵器補給廠に運ばれてきました。また、段原地区は被害が少ないのでそちらへもけが人が運ばれたようでした。
 
●比治山で目にした惨状
上司の玉井職長が、広島市役所で被爆して比治山へ避難していたので、迎えに行くため十時前頃から比治山に登りました。足の踏み場が無いほど、多くのけが人がいました。みな、やけどで火膨れになって、同じような顔をしていてひどかったです。「水をくれ、水をくれ」と言われました。「担架で人を運んで降りたら水を持ってきてあげるから、待ちんさいよ。しっかりがんばりんさいよ」と声を掛けましたが、その人たちはまるでおばあさんのような顔をしていて、年齢も分かりませんでした。

山頂に着くと、さらに信じられない光景を目にしました。比治山の北と西側一帯が火の海になっていたのです。私がいた東側は、爆風による建物の破損等の被害はあったものの、火災は免れていたので本当に驚きました。比治山のどちら側にいたかで、被爆状況が大きく二分される結果となったようです。

被爆した人が腕を体の前に出して歩いている絵がありますが、あれは本当です。腕を下ろすと、熱線によるやけどでむけてしまった皮が体に付いて痛いから、皆、腕を前に出しているのです。そして、誰もが山頂まで登りきったと思うと、バタバタと倒れて亡くなっていきました。見下ろすと、山道の途中にも力尽きてしまった人々が累累と横たわっていました。

山を降りるときも幾人もの人から助けを求められました。六年生ぐらいの男の子が一人でいたので、「どうしたの」と声を掛けると、その場に倒れてしまいました。よく見ると、すねがえぐれて大量に出血していました。必死で歩いてきて、私が声を掛けたために安心してそのまま亡くなってしまったようでした。本当にかわいそうでした。

その日は兵器補給廠近くの軍用鉄道のホームで夜を明かしました。朝食を食べ損ねて以降、飲まず食わずにもかかわらず、空腹を感じる暇もありませんでした。
 
●被爆翌日以降の状況
翌七日以降、第二総軍司令部の参謀が被害状況の調査のために、兵器補給廠に毎日来ました。私は、命令を受けて様々な任務にあたりました。七日は、被爆後の大混乱の中、自転車で佐伯郡廿日市町(現在の廿日市市)の広島地区鉄道司令部へ行きました。当時は知る由もありませんが、相生橋など爆心地付近を通っていたのです。天満橋で、軍馬が大きな腹をして転がっていたのが印象に残りました。

八日は、安佐郡可部町(現在の広島市安佐北区)に駐屯していた部隊まで自転車で行きました。原子爆弾搭載機の随伴機が投下した爆発測定無線装置を部隊が回収していたのですが、それを第二総軍が調べるので持ち帰るよう言われたのです。無線装置は円柱の形状をしており、直径二十センチメートル・長さ六十センチメートル・重さは三十五キログラムくらいで、自転車の荷台に乗る大きさだったのですが、途中でタイヤがパンクしてしまい、夜になってようやく帰着したことを覚えています。

夜は軍用鉄道のホームに寝ていましたが、三日か四日くらいして兵器補給廠で洗濯などをしていた二十二、三歳くらいのお姉さんが防空壕で寝るように誘ってくれました。それで女性ばかりの中で私男一人が交じってその防空壕で寝させてもらいました。私はお姉さんたちに夜何回もトイレに行くときに付いてくるように頼まれ、そのため寝不足になるくらいでした。昼間は別の場所で仕事をしていたので、知らなかったのですが、防空壕の横では兵隊さんたちが、毎日遺体を何体も焼いていたそうです。お姉さんたちはそれが怖かったのだと思います。

その他にも、高射砲の砲芯を九州に送るための作業などにあたった後、八月二十日に解散したのですが、私は残務整理のために兵器補給廠に居残ることになりました。当時はまだ十六歳でしたが、未曽有の事態に陥った中で、実家に帰りたいと思ったことは一度もありませんでした。
 
●多くの人の死に直面して
兵器補給廠は、爆風によって屋根や窓に被害を生じたものの、レンガ造りの建物にはほとんど影響が無く、火災も発生しなかったので臨時救護所として罹災者の救護を行っていました。毎日死体が増えていく中、兵隊さんが火葬などの処置をしていました。私の知り合いにも、亡くなった方がたくさんいました。

同僚の網本さんは、広島市内の自宅で焼死しました。お母さんが兵器補給廠に知らせに来てくださったのですが、網本さんは、崩れた家の下敷きになり、大きな柱に挟まれて動けなくなったそうです。お母さんの目の前で火炎に包まれて、まさに生き地獄だったと話しておられました。また、宍戸さんは、休みのため自宅で被爆したのですが、翌日は元気に出勤しました。しかし、頭髪が抜け、歯ぐきから出血して、わずか一週間で命を落としました。玉井職長も、被爆直後は元気そうだったのですが、三か月後に亡くなられました。
 
●急性障害と後障害
目立った外傷が無く、任務に従事していた私ですが、九月二十五日より体調に変化が現れました。まず食欲が無くなり、血便が出るようになりました。全身が非常にだるく、家族に手紙を書こうにも、その気力さえ無い状態に陥ってしまいました。

そんな状況の私を見兼ねて誰かが連絡してくれたらしく、十月二日に父が迎えに来て、トラックで私を実家に連れ帰ってくれました。母は、毎日ドクダミ草を煎じて私に飲ませてくれました。それがよかったのか、何とか快方に向かいました。家が農家で食べ物に不自由しなかったのもよかったと思います。

三十~四十歳代は、元気に自営業を営むことができたのですが、最近になって風邪をひいて病院に行ったところ、白血球数が一万四千もあってこれは大変だということで、一週間ほど点滴を受けたこともありました。
 
●一番伝えたいこと
私が強く訴えたいことは、戦争は絶対にいけないという一言につきます。原子爆弾はもちろんのこと、原子力発電にも反対です。原発は地震などでいつどうなるか分かりません。人間の力では処理しきれなくなっています。考え方を変えていかないといけないと思います。子々孫々に至るまで、平和な世であって欲しい。ただそれだけです。

私が体験したことが、未来永劫に世界が平和であり続けるための一助になれば本望です。 

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