●被爆前の生活
当時私は十九歳で、安芸郡矢野町(現在の広島市安芸区)に母と二人で暮らしていました。父は私が五歳のときに亡くなりました。戦時中はどこにも勤めずに家にいるということは許されなかったので、学校を卒業後、働く所を探していました。友達から広島駅の改札と出札で募集があると聞き、面接を受けて、出札で働くことになりました。出札は、現在で言えば、みどりの窓口のことです。勤務は一日おきで泊まりの二十四時間勤務でした。出札の窓口は女性ばかりで、男性は助役さんとお年寄りの人、けがなどで軍隊に行っていない人が三、四人いるだけでした。
●被爆の瞬間
八月六日は勤務日だったため、やはり広島駅の会計に勤めていた友達と一緒に矢野駅から七時半頃の汽車で広島駅まで出ました。その友達はシゲちゃんといって、小学校からの友達で無二の親友でした。シゲちゃんが「今晩泊まりだから、四時頃行くね。おしょうゆちょうだいね」と言い、私が「うん、あげるよ」と応えて、出札の事務所の前で別れました。別れる前に、シゲちゃんと手をつないで引っ張り合い、何か予感があったのでしょうか、別れがたい思いをして別れました。
事務所では前日に泊まりの勤務だった人と交代のため、朝八時から点呼がありました。その点呼をとっているときに原爆が投下されたのです。私は爆心地の方角に背中を向けていたのだと思います。何かが光るのと、周囲が真っ暗になるのが、ほとんど同時でした。助役さんに「机の下へ伏せ」と言われ、皆机の下へ屈んでいました。しかし、待っても周囲が明るくならなかったので、外に出ることになりました。事務所の裏に出口が一つあったのですが、その出口からではなく、窓の格子を皆で押して外し、窓から外へ出ました。そのとき、右足をけがしてしまい、家に帰って見たら、真っ青になっていました。
●東練兵場へ避難
外に出ると、周囲がぼんやり見えるようになり、窓口で働いていた人たちも外へ出てきました。私は事務所にいたので、右足以外は、けがをしていませんでしたが、窓口で働いていた人たちは、皆割れたガラスでけがをしていました。
駅の出札を出た所では、黄色い服を着た五、六歳くらいの子が「お母ちゃん、お母ちゃん」と言って、母親を捜していました。真っ暗な中で迷子になったのだと思います。助役さんが、その子の母親を捜すため、駅の方へ連れていきました。
「けがをした者を、鉄道病院へ連れていけ」と言われたので、鉄道病院に行こうとしました。その途中で、木造建ての陸軍の兵舎が倒壊しているのを見ました。私たちより先に、鉄道病院へけが人を連れていった人たちが引き返してきて、「鉄道病院へ行っても、入れない」と言われました。私は見ていないのですが、鉄道病院も木造建てなので、おそらく倒れていたのだと思います。それで今度は線路を渡って東練兵場へ逃げました。
東練兵場からまっすぐ行くと、東照宮がありました。そこに逃げようとして、石段を上がっていたら、バリバリ、バリバリと音がして山が燃え始めました。東照宮から人々が降りてきたので、これはだめだと思い、東練兵場へ戻りました。練兵場では、二葉の里の方から人々が逃げてきて、右往左往していました。やがて、練兵場にある引込線の線路の枕木にも火がつき燃え始めました。
●忘れられない記憶
私たちはどうしてよいか、分かりませんでしたが、その日は勤務日なので勝手に帰ることもできず、しばらくの間うろうろしていたのですが、出札で働いていた十五人程で、矢賀町にある助役さんの家に行くことにしました。
矢賀へ行くまでは、もう本当に生き地獄でした。人の顔が普通の皮膚の色ではないのです。真っ黒や灰色になり、すごく顔が腫れている人、人相も何も分からない人、行き倒れになっている人もいたし、皮膚が焼けただれてぶら下がり、ふらふらと夢遊病者のように歩いている人もいました。このときの記憶は、七十年近く経った今でも、目に焼きついて忘れられません。ただ記憶が頭の中にあるだけでなく、ついこの間のことのように思い出します。
矢賀の助役さんのお宅へ着いてから、昼ご飯を出していただきました。朝、家から持ってきた弁当は、広島駅の更衣室に置いたままになっていました。夕方の四時頃になって、助役さんが「広島には入れないので、もう今日の仕事ができない。それぞれ家に帰りなさい」と言われ、海田市駅まで歩いていきました。海田市駅からは汽車が出ていたので、矢野駅まで汽車に乗って家に帰りました。
実は東練兵場で近所の女の子に会い、矢野町へ帰ったら、「私が元気で、東練兵場で会ったことを母に伝えておいて」と頼んでいました。そのため、母はたいして心配していないと私は思っていたのですが、私が家に着いたとき、母は私を迎えに行こうと大八車を引いて海田市町まで行っていました。
●被爆の翌日以降
七日の夕方、出札の人は仕事に出るようにと連絡がありました。
八日の朝、七時過ぎに家を出て、呉線で向洋駅まで行き、向洋駅から広島駅まで歩いて行きました。駅までの道に死体は無かったようですが、何かにござが掛けてありました。あれは馬ではないだろうかと思って通りました。
広島駅に行くと、七日から仕事に出れば良かったのにという雰囲気でしたが、私はあんな目にあって、すぐに働く気持ちにはなれませんでした。しかし、それから四、五日は泊まり込みで働きました。罹災証明書を持っている人々に切符を発行していたので、汽車が動いてない時間も働かなければならず、家には帰れませんでした。義兄が着替えを持ってきてくれました。夜になると、あちこちで火が燃えているのが見えました。昼間は全然分かりませんでしたが、倒れた家が何日もくすぶっていて、夜になるとそれが見えるのです。皆でその火を見て、「亡くなった人のリンが燃えているのでしょう」と話しました。
また、広島駅では、けがをした兵隊さんを輸送していました。大野かどこか下りの方に陸軍病院があり、そこへ送られたのだと思います。歩ける人は、ちょっと引きずってでも、両方から抱えて列車に乗せ、歩けない人は担架で運び込んでいました。その兵隊さんの輸送が一日に何度かあり、それが今でも目に焼きついていて忘れることができません。
●シゲちゃんの死
六日の朝、一緒に出勤した友達のシゲちゃんは東練兵場で倒れていて、六日の夕方、帰ってきたことを七日の朝になって聞きました。シゲちゃんの両親が東練兵場まで捜しに行き、名前を呼ぶと返事をしたので、連れて帰っていたのです。私はすぐに会いに行きましたが、シゲちゃんは重症で、もう一言も話せませんでした。広島駅の屋上で点呼をとっている最中に被爆したので、屋上から吹き飛ばされたのかもしれません。私が四、五日泊まり込みで働き、十二日か、十三日に家に帰ると、シゲちゃんはもう亡くなっていて、葬式も済んでいました。六日の朝、出札の事務所の前で、手をつないで引っ張り合って別れたのが元気なシゲちゃんを見た最後になりました。シゲちゃんのお母さんに「よっちゃん、あなたは生きていて元気でいいね」と、いつまでも言われてつらかったです。シゲちゃんの墓には、いつもお参りして話し掛けていました。結婚して夫の転勤で矢野町を離れても、盆や正月で帰る度に墓参りしました。
●戦後の生活
終戦後も広島駅で働いていましたが、軍隊に行っていた男の人たちが帰ってきたので、仕事を辞めることにしました。それから、母と二人で暮らしていました。戦後は本当に食べるものが無くて苦労しましたが、母はとても優しかったので、どうにかこうにか生活していました。
二十三歳のとき、結婚をしました。主人は、予科練習生として高知へ行っているときに終戦となり、その後は国鉄に勤めていました。主人の転勤で、山口の下関へ行き、そこで二十年暮らしました。主人は穏やかな優しい人で、大声で子どもたちを怒ったり、手を上げたりしたことはありません。出産や被爆二世について、世間ではいろいろなうわさがありましたので、子どもを産むとき、初めは怖かったのですが、三人とも健康に生まれました。下関に住んでいるときに知人にすすめられて、被爆者健康手帳を取得しました。
広島駅で働いていたとき、私の二つぐらい年下の同僚がいました。彼女は私を姉のように慕ってくれていました。両親がいなかったので、お姉さんの嫁ぎ先にお世話になっており、県立広島第一高等女学校を出てから、広島駅の出札で働いていました。一緒に泊まりの勤務の日には、母が一緒に食べなさいと言って、おかずを多めに持たせてくれていました。戦争が終わってからも出札で働いていましたが、下関へ引っ越してからは、連絡が取れなくなっていました。下関にある鉄道の工場に、彼女が仕事で来ていたという話を聞き、会いたかったのですが、日帰りで広島に帰ってしまい、結局会うことができませんでした。その後、近所の方から、彼女が原爆症で亡くなられたことを聞きました。昭和二十六年ぐらいのことだと思います。割と元気にしていたのに、若くして亡くなったと聞いて驚きました。
●被爆体験を伝える
私は九十歳まで、元気に過ごしてきました。現在、子どもが三人、孫が七人、ひ孫が十人います。広島へ帰ってきてから、子どもたちが原爆の話を教えてと言うので、原爆の体験を話すことがありました。去年は一番年上のひ孫が、作文を書くため、原爆の話を何日も聞きに来て、ひいおばあちゃんのことが、よく分かったと言ってくれました。他のひ孫たちはまだ幼いですが、いずれ原爆の体験を話していきたいです。 |