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座談会「玉川祐光さんを囲んで被爆体験を聞く」 
玉川 祐光(たまがわ ゆうこう) 
性別 男性  被爆時年齢 13歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2015年 
被爆場所 広島電鉄㈱ 広島駅前停留所(広島市松原町[現:広島市南区松原町]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島県立広島第二中学校1年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
昭和二〇年八月六日、広島県立広島第二中学校(現広島県立観音高等学校)

一年(一三歳)のとき、広島駅前の電停で被爆
 
本日ご出席していただいておられる方は,昭和一桁生まれの方はお一人くらいで,昭和二桁のお生まれの方が殆どのようで、しかも昭和二〇年以降の原爆云々の問題以降にこの世に生を受けられた方が半分以上おられる感じです。

最初に原爆の被害の状況を話させていただきます。広島に投下された原爆はウランの原爆で、長崎はプルトニュウムの原爆といわれております。当時広島市では約三五万人の方が原爆の直爆の影響を受け、投下後に救助や身内の人を探す等のために広島市に入った方が一一万三千人ばかりおられ、合せて四六万人強の方が一発の原爆の影響を受けたと記録に残っているようです。そのうち、直爆でその年の一二月までに亡くなられた方が約一四万人おられ、その後の五年間で約二五~二六万人が亡くなられています。昨年の段階で(被爆にあわれた約四六万人のうち)生存しておられる方が二〇万人を割ったといわれています。そんなことでかなりの人が、一発の原爆で非常な被害を受けられたことを改めて申し上げておきたいと思います。

原爆の怖さは三つの要因があり、熱線と爆風と放射能です。広島大学の葉佐井先生のまとめられた資料をいただいたのですが、爆心地の中心部では熱線の温度は爆発した瞬間は四、〇〇〇度くらいの温度が発せられております。四、〇〇〇度といいますと鉄が溶ける温度が一、五八八度,鉄が沸騰する温度が二、八六二度ですから、鉄が沸騰する温度の倍くらいのエネルギーが熱線として発生したということです。爆風は秒速四四〇メートルであったといわれ、音速が三四〇メートルですから音速の一・三倍くらいの速度の爆風がおきたというのが実態のようです。放射能につきましては事後いろいろとありますが,障害物などにより被爆の量が大きく違うようですが、いまだにその影響が続いております。この三つが我々に大きなダメージを与えた内容です。

私が体験しましたのは、ここに地図を出しましたが、広島駅前の市電の停留所で被爆しました。爆心地近くの国際会議場横に二中の慰霊碑がありますが、当日私たちはその場所に集合することになっておりました。私は賀茂郡の西条駅近くに住んでおり、そこから作業場に八時に集合ということで通っていました。普段は学校に行くとき、一番列車で広島駅に降りて歩いて観音にある広島県立広島第二中学校(現広島県立観音高等学校)に通っていました(当時一三歳)。作業がある日は市電を使ってもよろしいということになっておりまして、二番列車で行けばぎりぎり八時に間に合うので、当日は二番列車に乗りました。当時は、空襲警報が発令されますと汽車は一旦停止して徐行運転に入り、警戒警報になってはじめて元の速度に戻るのです。そんなことで丁度八時に広島駅に着くくらいに汽車が遅れたのでしょう。当日は、同じ二中の同級生が一一名乗っており、一一名が停留所に並んで待っておりました。当時のことだから、二列縦隊や一列縦隊が習慣づけられていたので多分並んで待っていたと思います。そのときに丁度、八時一五分になったのでしょう。目の前がばっと電気がスパークしたときの青白い光、そういうのを感じただけで、音は全然聞いておりません。吹き飛ばされて気絶していたのでしょう。気を取り戻すまでにそう長い時間ではなかったのですが、気が付いたとき辺りは真っ暗になっていました。後で考えて、爆風で一瞬のうちに家屋などが倒壊し、埃が舞上がって暗くなったのですね。しばらくうずくまったままで周囲を見ても誰も見えない状態でした。だんだん時間が経つにつれ、夜が明けるように少しずつ視界が開けてきました。時間にして三〇分くらいでしょうか。

最初に見たのは、駅前からかなり離れた八丁堀の福屋デパートと中国新聞社ビルだけでした。そのほかの建物などは全部何もなくなっていたのです。それで初めてこれはとんでもない大きな被害が出たのではないかと気づいたのです。その時は気が付かなかったのですが、自分も顔の右半分と両手の甲をやけどしていたのです。痛いとかの感じはないのです。周囲を見渡しても、誰も友達一人として見当たらないのです。後から考えますと、立っていた位置から恐らく二〇~三〇メートル位吹き飛ばされていたように思いました。頭の後ろに大きなこぶができていました。

いずれにしても、集合場所に行ってもどうにもならない。避難しよう。友達を探したけれども全然わからないし、いろんな方がおられたような気がしますが、はっきり記憶にないのですが、一番記憶に残っているのは、正気になりまして、これはもう家に帰らなければという気持ちになりまして、駅の西側を通って東練兵場に避難することにしました。途中、顔の前に卵がぶら下がったように目の玉が飛び出した方、上半身が道路に出て倒れた家屋の下敷きになって助けてくれと呻いておられる方などが何人かおられたような記憶があります。今もって強烈に思い出すのは、軍人さんが抜身の軍刀をつっかい棒にして道路の真ん中で仁王立ちになって呻いておられたことです。着ている服はほとんど焼けていてベルトだけ体についている感じでした。練兵場に行ったら近所の方が三々五々避難して来ておられて、その中の六〇歳前後の方でしょうか一人のおばあちゃんが、私に「あんた可哀想に火傷をしているじゃないの」と言われて初めて火傷をしていることに気が付きました。住まいはどこかと聞かれて西条と答えると、西条なら東の方に歩いて少しでも家の近くになるよう帰りなさいと言われました。私の体にかけていた防空頭巾を、火傷は日光に当たると痛いからそれを頭にかぶって帰りなさいと言われまして、とぼとぼと歩き始めました。時間的な感覚は一〇時前後ではなかったかと思います。

海田の手前くらいまでは歩いたような気がします。もう昼過ぎていました。その頃になりまして、罹災者を運ぶトラックが通りかかりまして、当時のトラックは今の二トン車を少し大きくした程度のものですが、そのトラックが罹災した人を荷台に一杯乗せまして、通りかかって、その運転手があんたどこまで帰るんかと言われ、西条だと言うと丁度その方へ行くから乗れやと言われ、トラックの一番後ろのギリギリ一杯乗っておられる人の後ろにぶら下がるような格好で詰め込んでもらって乗りました。そして今の道路とは少し違うかもわかりませんが、旧道の国道二号線ですね、それをトラックが罹災者を乗せて走ってくれました。ご存知のように汽車も後押しが付くような勾配の激しいところですね。そこをトラックがトコトコ、今でいえば歩く速さに毛が生えたようなスピードで走ってくれたように思います。今の八本松駅のちょっと手前を走っているときに、トラックが谷に落ちたんです。ずっと後になって現場に行ってみたんですが変わっていてよくわからないのですが、五~六メートル下にトラックが落ちまして、そこでまたトラックの下敷きになって亡くなられたり、怪我をされた方は八本松の国立病院に収容されたりしたんです。私はたまたま一番後ろに乗っていて、投げ飛ばされて川に落ちたんでしょう、二回目の気絶をしました。

気が付いたときは、農家の犬走のむしろの上に寝かせてもらっていました。その時は夕方の日没の頃で農家の方に、廣貫堂の神(しん)薬(やく)(ヒリヒリとする水飴状のもの)という置き薬を舐めさせてもらったんですね。それを舐めて気が付いたんだと思います。そこで気を取り戻しまして、そこからまた西条へ約八キロの道のりを歩いて帰りました。家にたどり着いたのはおそらく、夜中の九時か一〇時頃と記憶するのですが、その頃になりますと国鉄が罹災者を輸送するような状態になっておりまして、両親は汽車が付くたびに駅に探しに行ったらしいのです。私が駅の方とは反対側から歩いて帰ってきたら、家の前に母親がおりまして、お母さんと声をかけましたら、母親の第一声がいまだに耳にこびりついているのですが、「あんたは本当に祐光か」と言われましてね。それは確かにそういう姿だったんだろうと思います。顔は火傷で腫れ上がっているし、衣服はボロボロに焼けていましたし、そんなこんなで原爆遭遇から半日以上かけてやっと西条の家にたどり着きました。親が早く寝ろといって家に引っ張り上げてくれました。寝かされて気が緩んだんでしょうか、熱が出ておったようです。火傷の痛みとかは二の次で、何というか体中が後から考えれば熱にうなされていた状態であったんではなかろうかと思います。

私は広島市内で火の手が上がったのは記憶にありません。あの建物が倒れたときの埃が静まった後、火の手はぼつぼつ出たんだろうと思います。これが私が被爆した直後の状態の記憶です。

今でも思い出すと涙が出てくるんですが、同じ西条の国民学校から広島二中に入りました加納君という友人が、一緒に通っておりました。当日も同じ場所で被爆したんです。ところが、その場限り帰って来ないのです。そのお母さんが翌日、まだ朝暗いうちに来られまして、うちの子はどうしたかどうしたかと聞かれるのですね。聞かれましても先ほど話したように被爆後に一一名もおった友達一人として見つからなかった訳で、何とも答えようがないのです。その次の朝も早く来られたので、これから親が病院へ連れて行くからといって帰ってもらいました。病院へ行くと廊下から玄関から足の踏み場もないほど負傷者がおられるのですね。特に火傷の方が多く目につきました。今も西条に木坂病院がございますが、そこに女医の先生がおられまして、私を見るなりこれは大したことはないから家で寝ておりなさいといわれ、薬も碌にないのでガーゼを貼ってもらったり、ちょっと皮膚が裂けてぶら下がったところを取ってもらったことしか記憶にありません。

とにかく家に帰って寝て冷やしなさいということで、冷やすといっても当時は氷もありませんし、夏の真っ最中ですから、一番お世話になったのはきゅうりをスライスして、きゅうりのスライスを火傷の上に貼ってもらって、乾き始めたら新しいものに替えてもらって、非常にきゅうりというものにお世話になった記憶があります。そんなことで大した手当もできないまま家に帰っておりました。

翌日お昼過ぎ、丁度私の住んでおりました家の前に、朝鮮半島ご出身の方で日本の軍隊でも徴用という、要するに半強制的に仕事をさせるために日本に連れてこられた方がおられまして、その方が一升瓶に牛の血を入れて持って来られました。その方は牛の屠殺場に勤めておられまして、私の国では火傷にはこれが一番いいんだといって、牛の血の上澄みを、下に赤血球が溜り上には茶色な透明な液の白血球と血小板が溜りますが、それをコップ二杯ずつ飲めと言われました。普通ではとてもじゃないが飲めるとは思えませんけれども、牛の体温はご存知のように三八度以上ありますので、生温かい血をですね、飲ませてもらいました。その方が終戦をまたいで、二週間か三週間毎日屠殺場から牛の血を持って帰ってくれて、火傷にいいんで飲め飲めと言って飲ませてもらいました。後で話しますが、これが火傷の治療として非常に役立ったということを病院の先生から聞かされました。まあ、牛の血を飲ませてもらい火傷のほうはきゅうりを貼るということが続いて、約三週間寝ておりました。そのうち病院に二日~三日に一度くらいずつ行って診てもらったのですが、これといって手当ができないままでした。病院に行ったとき、火傷をした人にハエがとまってうじがわくんですね。そのうじが動くとものすごく苦しいらしくて、呻き声をあげておられるんです。それを付き添いの人がピンセットで一つ一つ取ったりしておられるのを目の当たりにし、もうたくさんの方のそういう状態を見させて貰いました。その次に行ったときには、その方の肌が非常にピンク色になってきれいになっておられるんですね。そう思ったら息を引き取られるんですね。やっぱりハエが卵を産み付けるということは、それだけ養う分泌物があるということなんです。分泌する力がなくなったらハエも寄り付かなくなる。うじもわかなくなる。そういうのを目の当たりに見ても、当時は神経が麻痺しているんで異常とも感じないんです。今じゃとてもじゃないがそういうのは正視できる状態じゃなかったと記憶しております。そんなことで、治療しながら三週間私は蚊帳の中で寝ていたんです。

先ほどの話の続きになりますが、加納君のお母さんは、二日目、三日目にも来て色々と聞かれるんですが、答えようがないんです。三日目のときですか、私の母が「もううちの息子に何を聞かれても分からないものは分からないのですから、もう来ないでください」と大きな声を出したのが、私の耳に張り付いております。その時には、何で生きて帰ってきたんかなと思う気持ちになりました。それほど気が狂ったように、まあ今でいえば冷静に考えれば相手の親のことを考えれば当然のことだと思うんですが、とにかくもう掴み掛らんばかりに、身体にくっつくようにして聞かれるんですけれども、もう何ともいえない気持であったことも事実です。その後、そのお母さんは国鉄の定期を購入されて、亡くなられるまで殆ど毎日のように何か手がかりはないかと広島駅に行かれたということを聞きました。

三五〇名同級生がいたんですが、ほとんどの者が集合場所に間に合っており、私のように汽車が遅れて現場に行けなかったものとか、当日具合が悪くて休んだものとか、親が買出しに行くからついて来いといわれて休んだとか、後から顔を合わせたらそういう友達が二一名生き残っていて、残り三二九名は集合場所に行って全滅でした。二中に入った同級生が一瞬のうちに二度と会えない状態になりました。

就職は、昭和三〇年にできたほやほやの会社に奉職させていただき、奄美大島の沖永良部島が社会人としての第一歩となりました。奄美群島は昭和二八年一二月二五日に北緯二七度線以北が日本に復帰して、農林省(現農水省)の甘味資源自給計画が示され、その計画に沿った製糖工場の建設、引続いて製造をする仕事をさせていただきました。

沖永良部には大山(おおやま)という山がありまして、そこに米軍の極東地区の電波探知の要になる基地がありました。その基地のタンクローリー車と、私が会社のジープの助手席に乗っていたのですが、その車が正面衝突しました。私は右足の大腿骨を骨折しました。それは昭和三三年の話なので原爆と関係ありません。九月二五日で、たまたま台風が発生して飛行機は当時飛んでおりませんし、船が欠航して島では怪我の対応ができない状態でした。

米軍基地のキャプテンが、事故に集まっていろいろガタガタしている日本の警察官の中に入って、自分を車ごと米軍基地に連れていきヘリコプターで嘉手納の米軍病院に収容してれました。当時、パスポートもなく、身元保証人もいないなどで、連れて行ったらいかんというやりとりもあったようですが、キャプテンが一も二もなく米軍基地に連れていき、ヘリコプターで病院に運んでくれて、助けてもらいました。それまではアメリカは恐ろしい人たちばかりだと思っていましたが、そのことを通して、逆に平和であればお互い人間同士、国とか人種とかには関係なく助け合う気持ちがあることに気付かされました。

そういうお蔭をこうむりまして、事故が発生して二時間後には嘉手納の米軍病院のベッドに収容してもらっておりました。そこで複雑骨折ですから手術を受け、四五日後に立川まで送ってもらい、そこから渋谷の日赤中央病院にと米軍の力によって送られました。日赤中央病院で約半年ばかり入院、通院して治療しました。

そのとき、幕内整形外科部長さんに牛の血を飲んだ話をしましたところ、「玉川さん、朝鮮の方に感謝しなさい。火傷の治療としてやけた細胞を再生させるための栄養源として最大のものをプレゼントしてもらったんだよ。それによってケロイドも残らないで、今のような状態になれたんだよ。」と言われました。一三年も経った後でのことで、朝鮮の方がその後どうされたのか分かりませんが、火傷をした自分の子供くらいに思ってもらっていただいたのかもしれませんが、毎日牛の血を持って帰って飲ませていただいて、お蔭で跡形もなく治ったのはその方のお蔭だと思います。

そういわれてみると、生き残った一緒に居た友人やその他火傷をした多くの方々はケロイドが残っております。ケロイドというのは、ご承知のように手術して取って整形しても、またできるので何度も何度も手術を繰り返すような状態で、いまだに会ったら傷跡がはっきり見える状態になっています。

お互い戦争をしたり、いがみ合うことがなければ国とかの差別なく分かり合う気持ちはみんな持っておられるんだとつくづく感じました。もう直接感謝の気持ちを伝えることはできませんが、日常の生活の中で常に相手の立場とか相手のことを思う気持ちが必要なんだなということを考えさせられました。

放射能の害は目に見えません。私は丁度一〇年後の昭和三〇年に盲腸をしました。当時、被爆をなるべく隠しておこうと、特に女性に多く、男性も原爆にあったことは口に出さないでおこうということを日常生活の中で感じておりました。盲腸で入院した時、被爆のことを言わなかったものですから、色んな検査をして間違いなく虫垂炎の症状であるが、白血球の数が正常値しかないのです。正常値が六、〇〇〇で盲腸など炎症を起こすと一〇、〇〇〇は超えるのが当たり前です。それが六、〇〇〇くらいしかないので(被爆のことを言わなかったものだから)一日手術が遅れたんです。すると炎症(盲腸)が破裂して膿が腹の中に出て、普通は一週間余りで治る所が一か月半かかりました。被爆後一〇年くらいは、知識もないし検査もしないのでわかりませんでした。怪我をしてもなかなか治りませんでした。今でこそ白血球の値は正常になりましたが、私の友人は一年半後に赤痢にかかりあっという間になくなりました。免疫の低下が災いしたのではないかと思いました。

平成七年に被爆者援護法が制定されました。その後は皆様の大切な血税で援助してもらって医療を受けましても援助していただくので、逆に恩典を受けながら生かされておりますので、せめて原爆に遭ったことを口を紡ぐのではなく、二度とこういう思いをすることがない世の中の実現に向けて機会あるごとに話をさせていただいております。

戸島地域振興会でこういう機会をつくっていただきましてありがとうございます。一発の原爆で四六万余りの方が悲しい思いをされ、すでに二六万以上の方が亡くなられました。こういうことが二度と起こらない平和を求めるために、先ず第一の目標は核廃絶です。皆さんのお力添えをいただき、頑張りたいと思います。

まだまだ心のうちがすっきりしないで、苦しんでおられる方が随分おられると思います。二度とこういう思いをすることがないような世の中を実現していけるような、そんな思いでこれから永遠に平和が来る願いを持ち続けられる一助にしていただければと思います。

終わりに

被爆体験を継承する取組みとして、戸島地域振興会が主催し会員である玉川祐光さんをお招きして被爆体験を語っていただきました。

七〇年前の記憶を甦らせ悲惨な状況を生々しく話していただき、四一名の参加者は息が詰まる思いで熱心に聞き入りました。

私たちは、被爆体験を次の世代に伝える伝承者として、このような取組みを続けることが、被爆体験を継承する取組みの一助になればと思っております。

             戸島地域振興会総務部 土居輝男

  

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