暑い、八月の、ある日の朝、誰もが、予期せぬ、寝耳に水の、あの、忌まわしい被爆。
それは、一九四五年八月六日午前八時一五分、ひろしまに、惨酷無比な、原爆が投下された日である。
私は満三歳、正確には三歳と七ヶ月足らずの年齢で、被爆しました。
時は過ぎ、今年二〇一五年、被爆七〇年の節目を迎えます。この時を、機に、私も、被爆被害者の一人として、原爆投下当日の、拙い記憶を想いだし、被爆の証言を、綴りたいと思います。
被爆した場所は、西区内に現存する。市立天満小学校近くの、上天満町の自宅で被爆しました。
その、被爆の記憶は、断片的な記憶に、なりますが。七〇年経った、現在にあっても、脳裏に焼き付き、消すことができません。
それに、被爆する少し前の場面も、何故か、記憶していますので、その辺から、述べることにします。
被爆当日、朝八時前頃、母屋に、私が遊びに行くと、縁側で祖母の膝に、従弟を座らせている姿に、嫉妬してしまい、しばらくたたずんだまま、縁側に上がろうとしない私を、祖母は、早く上がるよう、催促してくれるのですが、些細な嫉妬心が、拒んだのでしょう。最終的には、部屋に入るのですが。奥の部屋に、従弟と戯れながら、入ったと同時に、被爆してしまうのです。
その、被爆の瞬間。
私の人生において、未だ、見たことのない、例えようもない。真明るい閃光が、ピカッと、強烈に光った途端、地響きする轟音と、突き刺されるような、凄まじい爆風に、私の身体(からだ)は宙に舞い、部屋もろとも、吹き飛ばされてしまう。
ここまでは、記憶しているのですが、その後(あと)は、気絶したのでしょう。気がついたときには、倒壊した家の、下敷きになっていました。
この被爆の瞬間の出来事は、ほんの数秒でしょうが、私の脳裏には、破壊される場景が、鮮明に焼付いて、終生、忘れることは、できないでしょう。
幸いに、私は、僅かな空間に、うまく挟まれ、でも全く、身動きできず。しかも、真暗で何も見えない。あの恐ろしさは、忘れようにも、忘れられません。
その、あまりの恐怖心に、懸命に助けを求め、あらん限りの声で、両親と祖父母を、呼び、叫ぶんですが、瓦礫に埋もれた、私の声は、届かなかったのでしょう。
応答は全くなく、益々増幅してくる恐怖心は、いまもって、強く記憶に残り、忘れられないです。
他方、救出にあたってくれる、父と祖父は、住まいが、母屋の本家と、離れの分家に分かれ、次男である父は、その離れに、母と弟、私の四人の家族で住み、母屋には、祖父母と、父の兄、長男の伯父家族が住んでいました。
被爆当日。軍人である父も、爆心地近くにあった、西練兵場から、夜勤明けで、朝七時頃に、帰宅していました。その父の存在が、大きな力となり、更に、祖父と二人の力で、私達は、運よく救出されるのです。
母、祖母、伯母、従弟の四人は、先に救出されると、直ちに避難させ、残る私と弟は、なかなか救出されず、捜索が、難航したそうです。
それでも、父と祖父は必死になって、瓦礫を払いのけ、私と弟を探すのですが、二人の手作業では、はかどらず、時間を費やす、ばかりだったそうです。その時の困難さと、父の焦りと不安を、後年、語ってくれたことがあります。
難航する、捜索を続けるうちに、どこからか、かすかに、聞こえてくる私の声に、父は、「ああ、助かった」と、自分が、助けられたように、安堵したそうです。
救出された私は、左足膝上を裂傷しており、父は、傷を負っている、私を連れて、弟の捜索作業もできず。暫くの間、あとの事を祖父に頼み、避難場所になっている天満小学校に、私を抱きかかえ、急ぎ向かったのです。
途中、四方の倒壊した家々からは、くすぶり、燃えている所もあって、小学校も一部燃えておりました。
先に避難した母達は、危険を感じたのか、姿がなく、父は、思いついたかのように、真反対にある、※福島川に方向転換。
川に到着すると、避難している人で、川はいっぱいです。どの人も顔が黒ずみ、破れ衣服で、負傷している人も多く、呻(うめ)き、叫び、泣き、奇声を上げる人。慄(おのの)いて震えている人。そんな大勢の人達を、かき分け、くぐり抜けるようにして、向こう岸の、小河内橋下の、砂原に避難している、母達を見つけ出し、私を母に預けると、弟が、倒壊した家の、下敷きになっている現場に、父は急いで、帰って行きました。
ここの、福島川にくる道程(みちのり)でも、どこかしこも、家屋は皆倒壊し、なす術を失った人が、茫然とたたずみ、哀れな声で嘆き、泣き叫んでいる人。目に映ってくる全てが、破壊された、地獄絵のような、惨憺(さんたん)たる光景に、私は恐怖に慄(おのの)き、「どうしたんかね」と、父に尋ねたことも、覚えております。父の返答は、記憶していませんが。
弟は、ついに救出されず、満一歳の生涯を終え、後日、焼け跡から、黒焦げの遺体で、発見されたそうです。
その、救出されなかった、弟のことについて、もう少し、述べ添えて、おきたいと思います。
既に、亡き両親ですが、父が生前のおり、妻との、世間話が弾んで、ふと、八・六被爆の話題になり、母と、弟を、救出する時の状況を、詳細に語ったそうです。
その、話の内容は、被爆当日、家族で朝食を済ませ、一段落し、それぞれが、くつろいでいるところ。
私は、朝食後、すぐに、母屋に向い、そこで被爆しますので、家族とは、離れており、また、朝食前の家族との情景も、全く、記憶しておらず、明言できません。
前述に続いて、父は、一服して、くつろぎ、母は、弟に、授乳して、和(なご)んでいるところに、突然の被爆に、襲われるのです。
くつろいでいた家族は、家もろとも、瞬時にして、木っ端微塵に、吹き飛ばされ、倒壊した、家の下敷きに、両親と弟が、なってしまうのです。
幸いにして、父は、軽傷を、負っただけで、瓦礫に埋もれても、自力で脱出。その後、直ぐ様、母を助け出し、弟の、救出にも、当たるのですが、瓦礫に深く、埋もれているのでしょう。直ぐには、見つからず、父は、悩んでしまったらしい、もし、幾重にも重なった、瓦礫の下の方に、巻き込まれてしまえば、更に、探し難(にく)く、消息も判断し難(にく)い、状況に、弟は、おかれているのではと。
それを母は、納得しなかったそうです。今ここで、この胸に抱いて、乳を飲ませていたのだから、我が子は、きっと、近くにいる筈と、思い込み、暫くの間、気を狂わしたように、錯乱状態となって、積み重なった瓦礫の、隙間を、必死に、覗き込み、見廻して、捜すのですが、弟の姿を、見つけられず。目に映るのは、瓦礫ばかりで、母は、その瓦礫を、どうすることも出来ず。それに、私の姿が、ないことにも気ずき。遂には、放心状態に、陥ってしまったそうです。
父は、そんな母の姿を見兼ねて、「心配するな。必ず子供は、助けてやる」と、母を励まし。先に、救出されている祖母に、母のことを頼み、避難を、急(せ)かせたそうです。
私のことも、気になる父は、倒壊した母屋に行き、祖父と合流して、瓦礫の下敷きになって、探し難(にく)い、私と弟の救出に、当ってくれるのです。
救出する、父側からすると、私は、大声を発して、助けを求めたのに対し、弟は、声を全然出さず。沈黙の瓦礫の山に、手を施す、術すら無く、どうすることも、出来なかったようです。
そんな、状況にあっても、弟の救出を、母に、叶えて、やれなかった。父は、時が流れ、今になっても、それを引きずり、悔やんでいる無念さの胸の内を、妻に、吐露したのです。
この話を、妻から、聞かされるまでは、父から、私には、弟の、詳しい救出の話は、今まで、聞かされておらず。今となって、妻を介して聞かされる、この話に、思わず、胸が締め付けられる。被爆の悲惨さを、今更ながら、思い知らされた、思いでした。
挿話が、長くなりましたが。
自然な、避難場所に、なっている福島川では、誰かが、「川が満ちてくるから、岸に上がれ」の大声に、福島川から、私達も移動。
高須町の、父側の親戚に、避難のため、身を寄せたのです。福島川から高須までの距離、三キロメートル位はあるでしょうか。怪我をして歩けない、私をおぶっての徒歩に。母も、頭を怪我している身では、辛かったらしく、後年、その大変さを、母が語っておりました。
夜になって、この親戚から見えた、市街地方面の、燃え盛る火災で、真っ赤に染まった夜空に、驚愕したことも、記憶しています。
高須地域は、倒壊はまぬがれ、屋根瓦、窓ガラスが、吹き飛ばされずに、済んだためか、幸いにして、凌ぐことができました。
しかし、その晩、雨が降りだし、その雨も、黒い雨であったらしく、後で、わかったことですが。この雨の雨漏りには、大変であったことも、覚えております。
それに、痛がる私の左足の傷も、応急手当を、してもらうのですが。医薬品がなく、あるのは赤チンのみで、それを患部に塗り、包帯がわりに、薄い布を巻き付ける、簡単な手当でした。
ここの親戚に、到着した、翌日の朝方に、父が合流してくれ。その日の内に、母方の親戚、五日市の皆賀に、母と私の二人を、一時的な避難のために。高須の親戚から、手押しのリヤカーを借り、二人を乗せて、それも、人力で引っ張ってくれ。目測で、高須から、五~六キロ先の皆賀に、連れていってくれるのです。
父は、被爆当日、家族の救出作業と、軍人としての、任務遂行の責任もあって、西練兵場に、向かうのですが、そこは爆心地であり、破壊された施設は、人を寄せつける、状態ではなく。それに、その周辺には、多く散乱している、酷(むご)い遺体に。父は、被爆の惨酷さを、目の当りにするだけで。何かをしようにも、一人では何も出来ず。市中を徘徊して、その晩は、徹夜で、過ごしたそうです。
そして、高須の親戚に、たどり着き。私達、母子(おやこ)と合流し。仮眠を少し、とりはしても、疲労困憊の身体で、母子(おやこ)を連れて、皆賀に向かってくれるのです。
この様子を、後年、父から、聞かされると共に。母からも、口添えするように、聞かされました。
皆賀の親戚に到着後。三週間ぐらい滞在し。その期間中に、元の居住地、上天満町に、仮住まいの、バラック建ての、住居を、父と祖父の手で急造し、その後、父が迎えに来てくれて、帰郷したそうです。
この様子も、後年、両親が、語っておりました。
帰郷後、間もなく、祖父が、九月の初めに、被爆の後遺症で、頭の毛が抜け落ち、大量に、吐血してしまい。病状の急変に、手の施しようもなく、絶命したのです。
祖父が、亡くなった。その時の記憶は、私には、残っておりませんが、後年、祖父の凄惨な死を、聞かされるに及び。私が、現在あるのは、祖父のお陰と。今も尚、報恩感謝の誠を、念じております。
皆賀滞在中、たしか、五日市町役場が、仮の病院であったことも、思いだします。
私の、左足膝上の傷の症状は、一文字に破裂し、骨が見える深い傷でした。そんな症状にも拘わらず、赤チンを塗っただけで、包帯代わりに、薄い布を巻き付けた、応急手当で数日間、そのままの状態で、いたものですから、役場病院で治療してもらう際、傷に密着した、布をはがす時の痛さ、それにも増して、麻酔なしでの、縫合の痛さは、思い出すと、今もって、全身が、凍りつく思いです。
ここの親戚には、母の姉、伯母夫婦も避難しておりました。
その伯母は、背中一面、大火傷の重傷で、それは酷(むご)い傷を負っていました。
母から、聞かされた話しによると、伯母の被爆は、西区西天満町に住んでおり、当日朝室外で、爆心地に背中を向け、洗濯をしている最中に、被爆したそうです。
その火傷の症状は、皮膚が、背中一面に、小刻みに裂け、焼けただれ、裂け目からは、血をにじませた、内側の肉が見え、それは無惨な傷でした。うつ伏したままの状態で、寝返りもできず、辛かったと思います。
季節は夏であり、火傷した背中に、多くのハエがたかり、動けない身体では、ハエを追い払うこともできず、卵を産みつけられるのか、背中に沸くウジ虫。そのウジ虫を、伯父が、箸で一匹ずつ取り除く、姿を見た時には、幼い私でも、いささか気持ちが悪く、食事の際は、麦がほとんどの麦飯に、ほんの少し混ざった米粒を、ウジ虫に連想してしまい、食べれなくなって、つらい思いをしたことも、思いだします。
「三つ子の魂百までも」ではありませんが、被爆は、幼い三歳の私には、非常であり、大き過ぎるショックでした。
何度も、言うようでありますが、被爆は、脳裏に刻まれ、終生、忘れることは、できないでしょう。
そうは、言うものの、一方では、被爆直後の惨状には、筆舌に尽くし難(がた)い、多くの悲惨な現象が、多分にあった筈です。その酷(むご)い惨状を、まだ三歳の稚拙な私には、深刻に、捉えられていなかった。
それは、直接自身に降り掛かった恐怖は、はっきり記憶として、残っているのですが、それ以外に、関わっていても、稚拙さ故に、判断力の乏しさ、捉え方にも限りがあって、本当の、被爆の酷(むご)い惨状の、有り様は、見えていなかったと思います。
ですから、断片的な記憶と、冒頭で述べさせて、もらったのです。
しかし、今ここに、述べさせて、頂いております。被爆の記憶は、不確かな、曖昧な部分を、後年、親子で被爆の回想をする、話し合いのなかで、生前の両親が、埋め、補足してくれて、被爆の悲惨な実状も、多く、語ってくれています。その両親の語りを、思い出し、掘り起こして、証言と、させて頂きました。
それにしても、戦争がなければ、被爆はなかったろうにと思うと。日本は、戦争をどうしても、しなければ、ならなかったのか。国民にとっては、甚だ迷惑であって、無意味な、としかいえない、戦争だったのではと、思うと。一国民として、憤(いきどお)りを覚え、残念でならない。
正に、戦争行為は、愚の骨頂であり、人間にとっては、極悪と、認識すべきである。
更には、憎むべきは、核兵器である。
生命大虐殺(ぎゃくさつ)。人間社会を瞬時に、壊滅可能な、原子・水素爆弾。その核兵器を、使用する者は、全て、悪魔である。と、人として、断定すべきである。
その例からすると、人類史上、初めて核爆弾を使用したのは、米国であるから、悪魔と酷評されても、仕方あるまい。
それに、戦争終結を、早めるために、核使用との、言い訳も、戦勝国の論理として、罷り通るのであるから、理不尽である。
しかし、米国を非難し、責める前に、戦争を行使した、日本側にも、充分過ぎる、非がある。
史実が物語る、当時の政府・軍部主導による、太平洋戦争勃発を、国民も、どうあれ、連なって、容認したのだから、国を挙げての責任となり、戦争を行使した、日本は、その罪からは、逃れようがあるまい。
戦争ほど、悲惨で、惨酷なものはない。
この現実を、身をもって知らされた、被爆広島は。永遠に、平和の原点で、在らねばならない。
戦争がなければ、核兵器を、使用しなくて済む。この道理から、「不戦」を、平和の原点広島は、どこまでも、訴え続け、もう二度と、人が被爆することが、あってはならない。
日本は、戦争放棄、平和憲法を掲げた。世界でも類を見ない、最も、誇れる国である。
その戦争放棄を、標榜(ひょうぼう)する、日本は、国際社会にあって、リーダー格となり、どの国とでも、対話が出来る、立場を築き、「不戦」意識を、植え込める、地道にして誠実に、筋を通した、平和活動をすべきである。さすれば、世界人類に、大いに貢献が、できるのではなかろうか。
でも、こういう平和活動、行動は、日本には、今は、無理だろう。が、こういう方法が、基本と、ならなければ、活動、行動の、実りは、望めないと思うのである。
それ以前に、我が国の、戦争の悲惨さを、知らない世代に、戦争をしない、「不戦」認識を、どのようにして、学ばせるか。知恵を絞り、訴え、教えなければならない。
また教える、その、「不戦」を、今も、未来にも、確実に、伝承してくれる、戦争を知らない世代が、伝道者に、育ってくれなければ、意味がなくなる。その育成に、先ずは広島人が、中心となって、努力し積極的に、関わっていくべきであろう。
その努力の過程に、育成の実りが、あることを信じ、より以上に、働きかけていけば、やがては、戦争を知らない誰かに、「不戦」平和意識を、高く掲げてくれる、若き平和の使者の出現が、必ず、ある筈である。それを、期待しよう。
そして、今は、夢でしか描けない、「恒久地球平和」の実現を、被爆者の私は、更なる念願をして、止まないのであります。
※は、過去、現太田川放水路建設のため、元、実在した福島川は、埋め立てられ、広島には、七つの川が存在したが、現在は六つの川となっている
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