当時広島県仁保町丹那に兵団軍医部と言ふ医務関係の司令部で原爆投下時、朝礼が終わって私は用水池に水をくんでいた時異様な空気の圧迫を感じ地面に伏して暫くすると廻りがざわついて来たので頭を上げると事務所のガラスはあちこちで割れ、擦り傷を負った者も何人か出て来た。あとで気が付いたら約五十坪程の炊事場の建物の屋根が爆風で何処かえ飛ばされてなくなっていた。約一時間程して「近くの学校に負傷者が集っているので治療に来てくれ」との連絡で取敢えず何人かで学校に行くと既に患者が何十人も横になっていた。主に勤労奉仕の工場で毀れた建物の材木か何かでの擦過傷や打撲傷の人で中には腕の筋肉が裂けている様な人も多くいた。時間が過ぎるにつれ市中より被爆患者がぞくぞく静かな方へ避難し、又海岸に近くで水を呑みに海に降りる者も多いが夜収容に行くと殆んど木蔭で死んでいる者も多かった。元気な者をトラックで学校に収容するが夜が明けると何人かは死んでいた。
其の学校が大河小学校で二日目翌日から患者をこの小学校に収容する事になった。午前中は軍医と共に治療に回るが殆んど市中から避難して来た患者は被爆で前面火傷の人は顔から胴体全面火傷で背面の人は背中から腰までが焼けただれの状態の人が多く夏の日中の事で此の人達の収容する室内は異様な臭気が鼻をついてくる。
私の仕事は患者の一人一人に面接し住所氏名を聞き校門に貼り出して、家族を捜す人の為の目印にする為です。
二日・三日と重なるに従って被爆者の収容人数は増すが其の反面重傷者から毎日一人、又一人亡くなって行く。
八月末日より九月にかけて医療関係が軍と民間と交代となり九月初旬に復員となり翌二十一年、結婚し二十三年長女が生れ二十五年長男が生れた。復員以来、広島、宇品より被爆者が東京の病院に入院する新聞記事は約十年位続いていた。当時「流言蜚語」で「草木は」「子供は生れない」等、子供の発育には異常の神経をつかい心も休まらなかった。
玉木 義一
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