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母の原爆忌 
佐川 嘉美(さがわ よしみ) 
性別 女性  被爆時年齢 17歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1974年 
被爆場所 広島印刷(広島市南観音町[現:広島市西区]) 
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
毎年、夾竹桃の紅い花が咲き、暑い夏が来ると、広島の人々には、忘れる事の出来ない八月六日がやって来る。それは、もう二九年も昔の出来事だけれど生き残った誰もが、昨日の出来事の様に、重く生なましく想ひ出し、胸をしめつけられる。

母は其の日の事を、此の世の生地獄だったと云う。そして、其の生地獄の続きが三〇年たった今でも病魔として、人々の体に、心に、残っている事は、たとへ様もなく恐しい事だと云う。原爆は母から、多くの肉親をうばった。家が中心地近い十日市町だった事もあって被害は実に大きかった。生き残ったのは学徒動員で家に居なかった子供だけ四人だった。

その春(昭和二〇年)くり上げ卒業と云って四年生でありながら、五年生と一緒に女学校を出たばかりの一七才の夏だった。

(これより、私とは母のこと)

当時の日本は国民一体となって、ただ毎日が戦の明け暮れであった。東京、大阪、名古屋をはじめ日本の主要都市で空襲の被害を受けてない都市と云へば京都、奈良、別府、広島、長崎と数える程しかなかった。学校を卒業したと云っても自分の自由になる日々はなく、学校の時の続きでおお方の者は学徒として残り軍需工場の仕事にたずさわっていた。

四年生の時から初めて出来た看護婦養成クラスを出た私は安佐郡川内村に学校ごと工場疎開した友達等と四月から別れて広島日赤病院に看護実習に六月迄行き、七月から三年生の動員されている南観音町の広島印刷に勤めていた。印刷会社と云っても、それは広島にあった全部の印刷屋さんを技術を集めた会社で仕事とは陸軍の秘密地図とか陸軍第二総軍の印刷物を扱う会社であった。

八月六日は朝から暑い日であった。明方空襲があり、防空壕の中で一夜を明した私は疲れていた。前日の日曜日も出勤だったし、六日の月曜日は休日をとりたかったけれど自由に休むわけにもゆかず家を後にした。家を出かける時それが今生の別れになるともしらず、後になってその時の様子を一生懸命に思ひ出した。

女学院四年生の妹は東洋工業に動員されていたので向洋が遠い為もう家を出かけた後だった。広商一年の弟は学校から鶴見橋方面の建物疎開の後片付けに行くとかで馴れない手つきでズボンにゲートルを巻いていた。祖母がそばで鳶口を持ってそれが巻けるのを待っていた。きっとそれを道具にする為、家から持って行ったのであろう。中学一年生になったばかりの弟は足が細いのでなか上手に巻く事が出来ず「つまらんやつだ」と父が「ブツブツ」云ひながら両方共なおしていたのを、おぼえている。六時一五分位だったろうか。

至る所で空襲がはげしくなったので会社につく早々、私達を待ちかまへて居た会社は会社の外にある幾つかのトーチカ(土をほり下げ小屋をつくり土もりして入口だけあいている防空壕の事)の中に秘密地図の銅板をおさめる仕事を命じた。動員学徒の人達と三〇〇人位で一時間位かかったと思う。重い物だったので見る見る汗が出て喉がかわき仕事終了と同時に一階にあった食堂の水道に水を呑みに走った。歩数にしてもう三歩位で水道という時であった。

東北の方に向いていた私を全身マグネシュウムの様な火の玉が窓を通して部屋ごとつつんだ。一瞬どうしてよいのかわからなかったけれど、何事かがおきたと云う事を感じたので、今来た反対方向にとにかく逃げた。便所の所迄来た時、誰かの「伏せろ」と云う声に男便所の前にうつぶせになり目と耳をふさぎ口を開けた。同時であった。天地をもゆする様な大きな音が全身をたたいた。時間にしてそれはいったい、何秒であったのかしれないが、少しの時間が私の体を便所の建物の蔭迄、逃げさせてくれたのであった。おそるおそる頭を上げて見てびっくりした。自分一人が光をあび大きな爆風にやられた様に思っていたのに其処に見たものはまるで此の世の地獄であった。地獄絵の中にある自分が何処を見ても、かすり傷一つない事がいかにも不思議でならなかった。

今迄、元気に働いて居た人々が、頭を上げて目を見ひらいたら手折れ、足折れ、傷がさけ、機械の下敷になって、うめいて居る。三年生の学徒達は、トーチカの作業がすんで、まだ戸外に居たのか、衣服はさけ、焼け切れて顔面、手足、背中と云う様にひどいやけどで泣き叫んでいた。自分一人ではない。工場がやられたのだろう?それでもまだ空襲によってその様になったとは思へず、もしかしたら何かの薬品に火がついたのかもしれない、色々に考へて見た。

二階は全部ふき飛んでばらばらになり一階は足のふみ入れ場もない。とび出した人々でごったがへし誰がどうなったのか少しもわからない。二階にあった看護部屋には薬や医療品があったはずだからと上から落ちた木をのぼったりまげたりして、やっと二階の部屋にあった戸棚の所に、たどりついたが、たいていの瓶類はこわれてつかいものにならなかった。ホータイ少々三角布少しを見つけこわれずに残っていた五〇〇ミリリットルのヨードチンキ一本とを持って外に出た。日常持って会社に通っているカバンの事を思ひ出し、またそれも探し出した。弁当、防空ずきん、少々の大切なものが入っているので今の私にはすてて行くわけにはゆかなかった。

会社幹部の人達は自由行動をさけさせ一応会社を出て川岸に集結する様指示をされた。その頃の南観音町第二高等小学校あたりは町並を、はずれた所には、いたる所に畑があり、ちらかっている民家も、かなりあった。軒並先程の爆風でやられたのか、ほとんどの家は南西の方がくにかたむいていた。かべ土が落ち口をあけた様になって居る家の中には人気はまったくなかった。

三、三、五、五、川土手に集まったのか川岸は人で一杯であった。衣服はさけ皮膚は焼けただれ、ぼろぎれの様にたれ下ったゆうれいの様な人々、南観音町の辺の出来事だと思っていた自分の間違ひを時間がたつにつれしらされた。遠くの方からもまた近くの方でも火の手が上った。火事もおきてしまったのだ。川岸に居る人々の中から向岸めざして泳ぎ出す人も出て来た。少しでも遠くの方に逃げたかったのか、力つきて川の中にしずんでゆく人も多くあったが、誰もがそれをただ見つめているだけでどうしようも出来なかった。

動員の生徒の中のやけどのひどい人の顔や背中に何処からか生玉子をもらって来てぬって上げている学友がいた。自分の持ち出したヨードチンキは何の役にもたたない事をしった。やけどにヨードチンキをぬったらたまったものではない。捨てる事も出来ず手にしていたヨードチンキの為、何人の人が傷の手当を申込んで来られたかわからない。気がついた時にはホータイも三角布もみんな上げてしまってカバンの中には一つもなくなって居た。

女学校一年生位の女の子が土手の草の中で私を呼んだ。「お姉さん、私に薬をつけて下さい」見ると全身やけどで着衣はほとんどなく、男やら女やら、見当も付かない程の様に生きている事の出来たのを不思議におもひ乍ら、私は其の子に近付き色々たずねて見た。

建物疎開の後片付けをしていた土橋で被爆、やっと此処迄逃げて来たこと。家は何処で、何と云う名前ですと一生懸命云っているのだけれど、はれ上った口からは思う様に声も出ず聞きとる私もよくわからなかった。「お母さんに逢ひたい。家に連れて行って下さい」

やっと聞きとれた言葉を最後にぐったりとなってしまった。どうにかして上げたいけれど、やけどにヨードチンキはつけられず、全身をおおうやけどに手をつけることも出来ず、誰かにたのんで見るからと約して其の場を去った。併しあまりにも急な出来事に救護してくれる人も場所もなくどうにもならなかった。可哀想に可哀想に、それだけがその女の子に対する私の心からの気持だった。

そのうち会社から市中に状況偵察に出されていた若い男の人数人が帰って来られた。こんなにひどい被害が又とあるだろうか、此の世のものではない。見わたすかぎりのあしゅら(阿修羅)だと云はれた。会社幹部の偉い人も随分亡くなられたと聞いた。

町の中は足のふみ入れる場所もない程と云うのだから女や子供の近寄る事を禁じられる意味もわからないではなかった。傷一つない私であれば家族の安否も気遣はれそう遠くもない十日市の家に帰って見たくて仕方なかった。黒く大きな雨が降り出したのはその頃からか、あまりにも大きなつぶと色の黒さでてっきり油だと思った。一瞬焼き殺すつもりなんだなとすくむ思ひがした。B29が一機飛んでいたと思ったらすごい爆弾を投下され今また何処からが油を一面にまかれる。次は火だ。火をつけられたら、ひとたまりもない。体に雨をしましたら最後だ。土手に硫黄工場があったのも一しお恐ろしく、かたむき残った民家におもわずとび込んだ。其の日会社を欠勤で家に居た同僚の宮本淳子さんにそこで逢おうとは、観音町に家がある宮本さんの家は誰も被害がなく家がこわれた程度とかでお互に無事であった事を心より喜んだ。みんなずぶぬれになっているのに傘を持った宮本さんが随分印象的であった。

一二時過ぎ頃だったか、宮本さんにことわりカバンの中から朝母が作ってくれた弁当をとり出し、のきの下で食べた。大豆。麦。大豆かす。米の少ししか入ってない弁当はすぐくさるからだ。これから先の事を考へると取っておくわけのもゆかなかった。弁当は宝物だったのに。おかずはジャガ芋のにつけだった。母が私に作ってくれた最後のたべ物ともしらなかった。宮本さんと再会を約して別れたのは其の後一時間位してからか、時のたつのがいたずらに速かった。

雨は何時の間にか上っていた。川土手にもどったら先程の女学生は黒い雨に打たれて、こと切れていた。誰にも見とられず一人で、土の上で、びしょぬれになりながら死んで行く、やりきれない気持で一杯だった。不思議と涙も出なかった。何もして上げなかった自分が薄情に思へて情なかったのかもしれない。むしょうに家族に逢ひたかった。

己斐に叔母の家があったのできっと全員此処に来る。きっと逃げて来る。父が居るから大丈夫だと自分に云ひ聞かせていた。

会社幹部宅のある高須に一応夕方迄集まる様云はれた事もあって、どうにか郊外に出ようと思ひ出した。高須に行く前に己斐にゆこう。二、三の人とつれだって旭橋迄来たが行き会ふ人のおばけの様な姿や道路一杯にさんらんした屋根瓦や木片、ガラスの山に心臓がどきどきして来て歩けなかった。旧い家並は軒別こわれていたけれど、さすが焼けた家はなく市街地のはずれに来たと云う感じがした。時々来るトラックには人が鈴なりになり叫ぶ声で何も聞こへない。鉄路を西に行った所にある叔母の家は小路のせいもあって屋根はかたむき、こわれていた。家の中はからっぽで隣の有浦さんが「八幡様の防空壕に逃げておられるのでしょう」と教えて下さった。防空壕迄は二〇分位と聞いたが高須に速くゆかなければとその思ひばかりで今来た道をひきかへし高須をたずねた。高須と云う町は高級別荘地で松井、大隅、国吉部長の家があった。

私は松井(社長)さんの家にゆかせてもらひおにぎりをよばれた。朝から呑みたかった水を呑んだ時は生きかへった様な気持だった。叔母の家を出たのが五時近く、一日中歩きまわして居たので口もきけない程だった。永い夏の日も暮れて夜が来た。二間つづきの広間に二、三十人の人がねるにはむし暑くせまいので廊下に腰から上だけ横たへ休んだ。東北の空は見わたすかぎりの一面火の海、メラメラゴーと云う音は全市を焼きこがした。パチパチと火の粉は高須にも降って来て一晩中火勢はおさまる所をしらなかった。「十日市の家も灰さ」自分に云ひ聞かせなだめた。朝からの疲れで人々は次々深い眠りについて行った。蚊になやまされてねつかれなかった私が目を覚した時はもう東の空はしらんでいた。

夜明けと共に自由行動を許され火勢もおとろへた事だし行ける所迄行って見る様云はれた。私達は朝食もないまま松井さんの家を、市女出身で私と家の近い武田とく子さんと二人後にした。武田さんの家は塚本町だった。行き場がなければすぐ引返して来る様に云はれた言葉は気を大きくした。武田さんとは旭橋のたもとで別れた。(後日人から聞いた話では武田さんの家も全滅で随分情ない目に逢はれたといふ事だ)

武田さんと別れて、私は再び昨日行って見た叔母の家をたずねた。ああ其処で見たもの、そして聞いた事、思ひもしなかった十日市の家の全滅、父の死体。全身やけどで和ダンスの上段をのけて下二段に敷ふとんをたらし、もたれる様にして父は死んで居た。全身やけどでは横になることも出来なかったのであらう。父の体にはバターのにおいがして居た。併しそれが父だと信じる迄の時間のかかった事、焼けただれた全身はものすごくふくれ上り頭や腹は、はちきれんばかりだった。頭髪は一本、一本、やけちぢれ頭の中にこがりついていた。足の裏は炭化してかかとの骨が中から見えた。前で折りまげさげている両手には指が一〇本づつもあった。よく見ると五本の指がむげて手のひらにぶら下り一〇本づつになっている事がわかった。爪は皮の方にくっついていた。耳も口びるも三倍位に大きくふくれていた。「お父さん」涙がとめどなく流れた。昨日からどんなにおそろしい物を見ても涙も出なかったのに止まる事をしらない。もうおしまひだ、あらためて昨日の出来事の大変さにおそれおののいた。

隣の有浦さんの奥さんが来て下さった。昨日私が叔母の家を出たすぐ後反対方向から父がまっぱだかで目も見えなくなり、たずねて来たのだと云う事。一晩中苦しみながら助けを求め叫んだ。家族を助け出す事も出来ず一人で逃げて来た事。天満橋が落ちていて遠まわりをして遅くなった事。私達子供に逢ひたがっていた事。とりわけ長子の私には逢ひたかった風だった事。明け方五時息を引きとった事。何を聞いても涙にならないものはなかった。

一家全滅、考へても見なかった現実のおそろしさ、「しっかりするんですよ」有浦さんは気の毒そうに一言云はれた。幼い子供達がおそれるので叔母は防空壕の中に一晩中居たのだと云う。一人で死んだ父が哀れであったが叔母をせめる気はなかった。ゆうれい、父はおばけの様であった。壕の前で佐伯郡の川内村に疎開している上の叔母を見た時は本当に嬉しかった。中島にある県庁に居る叔父の安否も、十日市の私達の事もきがかりで夜明けを待って来てくれたのであった。もどかしく作ったと云うおにぎりはおいしかった。だが叔母に逢った事の方がより嬉しかった。

そうしながらも私達は再度の空襲におののいていた。叔母の提案で叔父の事、私の妹、弟の事も気になるが一まず今居る者だけでも川内村に逃げる方がよいと云う事になり父の遺体は知り合ひの警防団員の人に特別に焼いてもらう事にしてお米やふとんをお礼に出した。遺骨は後日大切に渡して下さると云う。別れがたい父との最後は敷ふとんをしいてのせられた大八車の上でした。国民学校に持って行くのだそうだ、昨日迄元気に私達家族の中心になって真面目に生きて来た父、父の最後はあまりにもあわれであった。片方の手の親ゆびの爪をそっとはがした。大切にしまった。父の形見はなに一つなかったからだ。

己斐の山の裏手から川内村にゆく事にした。手に持てるだけの物を持って二人の叔母と私と三人の小さい従姉妹達は山道を行った。赤とんぼが妙に多く飛びかわしていた。両親のなくなった私達の将来を暗示している様であった。父は享年四一才であった。

         ※冒頭の一五行は執筆者が娘の思いを代筆
  

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