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原爆の記憶 
坂口 秀和(さかぐち ひでかず) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分)   執筆年 2015年 
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
被爆三世 坂口秀和

祖母は二〇一三年一二月二四日に被爆した事を殆ど話さないまま誤えんの影響で肺炎で亡くなりました。

一九二四年(大正一三年)に理容学校校長の長女として現広島市白島で生を受けました。幼い頃からおてんばで、かけっこも速かったそうです。

未だ立派だった産業奨励館(現原爆ドーム)にも何度か行き、また近所のお店で一銭焼きと言って、お好み焼きの生地で具を挟んで焼いて二つ折りにしたものを買って食べていたそうです。

高校は進徳女学校に行きましたが、もう戦争の嵐の中で、普通の授業など受けられず、練兵場を作る為に今の総合グラウンドの所に二人でかごに入れた土を棒でかついで運んで行って広場を作ったそうです。

米軍の飛行機が来れば空襲警報が鳴りいたる所に「防空ごう」という地下の洞穴が掘ってあったので、すぐさま防空頭巾というのをかぶって飛び込んでいたそうです。

その戦争の中で祖母のお兄さんは、お酒の代わりにエタノールを飲んで戦後早く亡くなりました。

当時は何処の学校にも天皇陛下の写真が有り、前を通る度におじぎをしていました。

時々若い兵隊さんを見て乙女話もしていたそうですが、まさか生まれも育ちも違う田舎(三原市大和町上徳良)へ昭和二〇年二月嫁ぐことになろうとは思いもしなかったそうです。

鎌も鍬も持った事がない祖母は必死に農業見習いと田舎の生活に馴れるよう努力したと思います。

祖母の父は、空襲警報が鳴ると黒いカーテンを締め理容店の光がもれないようにはしながら「日本がアメリカに勝てる訳がない」と当時から言っていたそうです。

増々戦火の深まる中、あの大事が起きてしまったのです。

八月六日その日祖母は義姉と草取りをしていました。ドーンという音で空を見上げたら黒煙が上がっており、近所の東春子さんと取るものも取りあえず広島に行きました。

道すがら、人が真っ黒に焼き焦げ、丸太棒のようにゴロゴロと横たわっていました。

実家の在った白島は焼け野原でしたが「無事避難」と立て札が有り一安心。

しかし収容所には皮膚が焼けただれて、うじがわいている人も居たり、川の近くでは「水をくれー水をくれー、川へ川へ」と川に入って次々と人が死んで行きました。

義妹が、陸軍病院に居ましたが、瓦礫の山で、もう命は無いと肩を下としました。自分の生まれ育った広島がこんなひどい事になってるなんて・・・。

義弟は比治山に行く途中の鶴見橋で被爆し背中一面やけどしガバガバになり真っ黒で、顔はただれて、口からは膿のような物が出ていて呻きながら数日後亡くなりました。

祖母の父は家の下敷きになりましたが、現東区戸坂に避難して助かりました。しかし父も三年後病魔におかされ、衣装家具を病院代に当てましたが、原爆症で頭を切かいし、亡くなりました。

祖母の叔母は全身やけどして裸足のまま安佐へ逃げましたが苦しみながら三日後息絶えました。

広島の街には裸の人、皮膚が衣服のように垂れ下がって息絶えて行く人、生き地獄です。全てが焼き尽くされた広島では医薬品が無く傷口に油を塗って気休めにしていました。

当時七〇年は誰も住めないと言われて来た広島が復興したのには驚きです。

祖母はこのような事を幼い私に一時期は話していましたが「もう話したくない」と辛い思いをかみつぶしていました。

そんな祖母も肝臓を悪くして通院していましたが誤えんで入院し人工呼吸器を付けながら私が声をかけると必死に手を伸ばして来ました。入院二週間で八八歳の人生をあっけなく閉じてしまいました。

                       坂口秀和
  

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