平成二十六年三月一日記
津島 休映
昭和五年
(旧姓 岩香 休映)
現住所 広島市安佐南区
(被爆時の住所・広島市尾長町三本松)
(被爆の場所・爆心地から二・五キロメートル。広島駅上り愛宕踏切東側道路上)
「昭和二十年八月六日」
当時、私は十四才。広島市立第二高等女学校(二年制)の一年生でした。
普段は、海田の日本製鋼所に学徒動員で手榴弾の鋳型を作っていました。
当日は、空は真青で雲一つなく、朝日「ギラギラ」最高の真夏日和でした。(これまでの原爆記念日でこのようなお天気は一度もありません)
この日は月曜日の登校日で、近くの上級生の西口京子さんが警戒警報解除で誘いに来られ、広島駅上り愛宕踏切(現存)東側、和田文具店(当時は道路南側、現在は北側に移転)の前で、「ピカ」も「ドン」も知らず、いきなり真正面から猛烈な勢いで熱い灰と熱い風が吹いて来て、二十メートル位後ろに飛ばされ(現存愛宕神社附近)、真暗になり息も出来ず、一瞬気を失い気が付いて暗い中起き上がろうとしたけれど爆風で立ち上がれず。その内に段々と明るくなり、漸く立ち上がれて西口さんを何度も呼んだけれど返事がなく、どうしよう!?(西口さんは未だに消息不明です)
先づは家に帰ろう、と歩き出すと両側の家々から血を流した人達が出て来て、私も血が出ていないかと見たけれど血は出ていませんでした。
家に着くと、叔母が「よっちゃんが帰って来たよ。アーア髪が焦げてちぢれとるよ。家は壁が落ちて入れんよ」といい、そのうち私は顔、両腕、両手、両足の甲が熱くて道路の側のポンプを押して水を出し、洗い流しました。
(今思うに、水で流したのでケロイドにならなくて済んだのではないか?と)
当時は靴はなく下駄履きで、その下駄も配給制でした。
(今、NHKの朝ドラ「ごちそうさん」で戦時中のシーンその通りでした)
家は尾長小学校の南側で裏門からはすぐでした。
学校で手当をしてくれると聞き行ったけれど、人が多くて仲々順番が来ず、その時、「又空襲があるからすぐに避難しなさい」と云われ、近所の人達と大内越峠の焼場の山に行きました。行く途中、道路は髪も垂れ下り火傷で皮膚も垂れ下り頭から血を流している人、体中血だらけの人、着ている物も焼け焦げて、皆んな裸足で、かぼそい声で、「水をください」「水をください」とよろけ乍ら、そんな人達が道巾いっぱいで次から次からと続いて真(まさ)に此の世の地獄絵でした。
私の見た悲惨な光景は焼場の山に行くまでの道でした。
(今思うと、あの人達、どこにどうされたのだろう?)
(人間の魂を描かれた、シャガール展の画と重なりました)
焼場の山に着いて、午後、松の木の下で「黒い雨」を浴びました。その後、「わしらの家は今燃えよるけん、もう家には帰れんぞ」と近所の人に知らされ、その夜は、隣りの大下さんの実家が峠を越えた池の側にあり、縁側に行かせてもらったのですが、私は夕方から火傷で顔が水ぶくれで目が潰れ、両腕、両手、両足の甲も水ぶくれでパンパンに脹れ上り歩けなくなりました。
翌日、父が背負ってくれて、温品の屋根と床は出来ていた柱だけの建てかけの家で十日余り過ごし、その後は、姉も私も同級生の山根町の満田さんの家(この辺りは焼けなかった)の一間を借りて、約一か月余り居させて頂きました。
その間、家族は私の火傷の手当をしてくれました。キューリの汁、じゃがいものすったの、死んだ人の灰等を塗ってくれました。
中でもじゃがいものすったのが一番ヒリヒリしみて痛かったのを思い出します。友人は手当が出来ず、火傷や傷口からうじ虫が生れて木の枝でこそげていたそうで、改めて家族に感謝でした。
やがて、父が焼跡に掘っ建て小屋を造ったので、家族六人の雑魚寝の生活が始まりました。キティ台風で屋根が飛んだこともありました。
そして、十月末頃、幼馴染でもある同級生の佐久間好美ちゃんが授業再開を知らせに来て「よしえちゃん、色が白うなったね」「ふた皮くらいむけたかもね」と会話。
授業再開の教科書は新聞紙半ページでした。物理の先生の問題で「水とは何か」の一問だけで、H2Oに始まりの答えでいい点を貰いました。その若い男の先生、授業開始すぐに現れるので消防車というあだ名をつけていました。(朝比奈先生)
イタリー語で「サンタルチア」と英語で「オールドブラックジョー」の歌を教えて下さり今も口ずさんで娘二人に聞かせましたら、何故か急に「アッハアーハアー」と大笑いで、久しぶりの親子三人大笑いで、亦、又笑いが止まらなくなりました。
机を並べていた友人が、或る日、旧姓で被爆の体験をNHKテレビで語られているのを偶然目にして連絡をとり六十余年ぶりに感激の体面をしました。
「原爆で両親、兄、妹が家の下敷きで焼け死んだので、私は、火葬は絶対嫌だから大学病院に献体を申し込んでいるんです」と話され、各々のわすれられない辛い思いを抱えて生きていらっしゃいます。
私の友人皆んな薬と付き合っていらっしゃいます。私も御多分に洩れず平成の初め、速い、遅い、止まるの三段脈の不整脈、虚血性心房細動と診断され、一時はペースメーカーを勧められたのですが、逃げ出しました。以来先生と薬にお世話になっております。
「有難う」「お蔭様」と先生と薬に感謝です。
先日テレビで第二の白血病、細胞、遺伝子について視聴致しました。多くの先生方常に研究されていられることに頭がさがりました。被爆で放射能をもろに浴びている私、体の中のどこかに隠れていて頭をもたげないようにキープスマイル、ハッピー、ラッキーとファイトを燃やしています。
八二才の一昨年、妹を誘ってファッションセラピーのファッションショーに娘の勧めで参加させて戴き、大変身のもう一人の自分にうっとりでした。妹は水色のカラードレス、私は白のウエディングドレスでハラハラ、ドキドキ、ワクワクの美しい人生最高の日でした。
八三才の昨年は、娘が買ってくれたティアラとカラードレスで、観客席中央赤いジュータンの上を歩かせて頂き、夢で見た光景に驚き、すごく感動いたしました。
人生最高を二度も味わえて体の中の放射能さんをモグラ叩きで叩き潰したような気がしてとても爽快です。二女が云うには「ナチュラルキラー細胞」が増えて益々元気になったのだそうです。
それで八四才の今年は、和装、角かくし、家に飾ってある打ち掛けで参加を申し込んでいます。長女はカメラで、二女はビデオでいっぱい撮ってくれました。私のこの上ない宝物となりました。嬉しくて涙が滲んで参ります。
美しい心の種を戴いた主宰の伊藤先生、近藤先生、美容師の皆様、多くのボランティアの皆様方、又参加を勧めてくれた娘にも感謝で本当に有難うございました。
お蔭様でこれからの私の人生、一日一善を心がけて心に花を咲かせ乍ら、新しい自分に挑戦して行きたい。この思いをお友達にも繋げて行けたらと願っています。被爆して生き残っている私。元気な百才を目ざして欲張りたいと思っております。
私達世代、戦前、戦中、戦後を生き、精神的体力的にも鍛えられた色々な思い出が脳裡を駈巡ります。今では懐かしい思い出となっています。
戦後、七十年は草も木も生えないと云われたこの広島の地で、衣食住豊富な最高の今日(こんにち)とても幸せです。でもこの様な時代を知らずして原爆の犠牲となられた多くの方々に心からの御冥福をお祈り申し上げ、いつまでの平和が続きますように・・・と「合掌」で終わらせて頂きます。
拙い私の手記をお読み頂き、誠に有難うございました。熱く御礼申し上げます。
弥生吉日
ありがとう 明日につながる 楽しい笑顔
ファッションセラピーのキャッチフレーズ、大好きです。
「皆様、御機嫌よろしく」
自称毘沙門天のモナ・リザです。
因みに
平成二十七年七月二十三日老人大学(広島市)平和公園の清掃に参加後、被爆建物として今も残っている旧日本銀行で被爆七十周年記念展示「あの頃のひろしま」を見に行きました。被爆前の街並みが鮮明に思い出されました。地下一階に被爆時の悲惨な光景を絵に画き短い手記が添えてありました。私の知らない光景ばかりで一枚一枚胸がいっぱいになり、涙が止まりませんでした。
奇しくもその中の一枚、一瞬「はっ」と息を呑みました。私も十四才、このとき、この時間、私もこの列の中を歩いていたと思います。「大内越峠の焼場の山に向って」感無量でした。
|