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あのときの私 
松原 和子(まつばら かずこ) 
性別 女性  被爆時年齢 13歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 広島市第二国民学校(広島市南観音町[現:広島市西区南観音三丁目]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島県立広島第一高等女学校 2年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
私は当時女学校の二年生で、学徒動員として、南観音町の第一印刷所へ通っていました。自宅は市内鈄屋町三番地(現在の堀川町)にあり、父は出征中で、母と妹、私の三人で住んでいました。妹は六年生で学童疎開先の山県郡壬生町のお寺におりましたが、八月二日、母が面会に行った折、泣いて帰宅したがるので、止むなく連れ帰っていました。

印刷所へは市内の中心地に住む生徒が、動員されていた関係上、全員が家を焼かれ、家族を失っています。

八月六日
あの日の朝、印刷所に隣接する、第二高等国民学校の中庭で、先生の訓話中でした。

八時十五分、何が何やら、さっぱり分らず、ピカの光も、ドンの音も気付かずのまゝ、本能的に、校舎の側溝へ身を伏せましたが、すぐに、皆が先を競って防空壕に入りました。私が入ろうとした時、坪井先生が、降って来た黒い雨を指に採り、匂いをかいで、「これはいかん、ガソリンをまいて焼夷弾を落し丸焼けにするつもりだ。防空壕から直ぐ出ろ。」と、大声で叫ばれ、私は入りかけていて直ぐ出ましたが、先に入った人の、「早く出て!むし焼きにされたくない。」と、泣き叫ぶ声を聞き乍ら、近くの川土手のそばの高さ一米以上もある、トウモロコシ畠?に身を潜めしばらくじっとしていました。川の対岸は古江か草津か、「親類があるけん、泳いででも渡りたい。」という友の声も聞かれました。小舟が一艘漂っていました。「機銃掃射されるよ。」の声に又、シーンとしてしまいました。目の前の土手に小さな小屋があり異臭がしてきます。誰かが、「あの小屋には硫黄が置いてあるのよ。」と、いいました。そういえば硫黄の臭いがします。「あの小屋に爆弾が落ちたら大変よ。」と、いう声もします。どれ位の不安な時がたったでしょうか、しばらくして印刷所へもどってみましたが、建物はつぶれ、けが人もいます、やけどをした人もいます。私達は校舎の陰にいたのが幸いでした。くずれた建物の中に皆の荷物が置いてあります。先生が、「中に入ってはいけない、つぶれるぞ。」と、仰言いましたが、それでも何人かは先生の制止を振り切って、這って入りました。私も中に入り、防空頭巾や防空カバン、履物等を取って出ました。自分の物だけしか持って出ていないのです。まだいくらでも、友の持物を取って出られたのにと、これはずい分後からになっての後悔の念です。

その時、校庭に全身やけどで顔は目も鼻も口も赤黒く、血か泥か、衣服はなく、ぼろぼろの布が体にひっついて、ぶら下り、幽霊のように両手を前にして、皮膚はめくれて、指の先にたれ下り、男女の別も分らぬ人が、やっと分る、か細い声で何か言っていました。最初の衝撃が私の全身に走りました。体中がふるえて止まりません。走って其の場から離れました。この事は私の人生の中での最大衝撃であろうと思います。しかし其の後はそんな人を何人、何千人見たでしょう、でもなぜか、もう体がふるえる事はありませんでした。

私達は印刷所に置いてあった、非常食をバケツに入れ、先生の指揮のもと二人一組で隊列を組み、己斐の山に逃げました。途中、道の両側は、やっと、ここ迄逃げて来た人々が、力尽き、うずくまり、やけどで動けない人も、息絶えた人も、沢山いました。道の真中を足早に行く途中、女学校の栗田先生が道端で亡くなられ、きれいな布団が掛けてあったそうで、前の方の人は遺体に目礼して通ったそうですが、私は後の方だったので、気付かず通り過ぎました。

どのあたりでしょうか私達は相撲の土俵のような四本柱に屋根だけがある高床の大きい建物に逃げました。それから直ぐに何班かに分れて別行動を取りました。私は坪井先生に従い、四、五人の友と己斐国民学校へ、とって返しました。途中先生は、「県女の生徒はいないか?」と連呼され、私達も同じように叫び乍ら、校門を入りました。その時、すぐ左手に、かすかに、「はい。」と言う声がしました。皆走って行きました。「はい。」という声がなかったら、とても捜し出す事は出来ません。先生は「何年、何組、氏名は。」と聞かれ手帖に記入されます。しかし、それ以上どうしてあげる事も出来ないのです。そのままです。講堂の中も負傷者でいっぱいです。うなり声や、「水、」「水、」という声が重く頭に響ききます。「水をやったらいけんで、すぐ死ぬぞ。」と、男の人が、どなっています。県女の生徒は他にも三人位おられました。全部一年生です。当日は県女の一年生は土橋町へ建物疎開に動員されていて、全滅です。校門を出る時には、もう先程の一年生は、息絶えていました。両手を合わせ頭を下げましたが、何の感動も起りません。皆のいる建物に帰り板張りの床の上に立ち、市の中心地を見ると暮れなずむ中に真赤に燃える火が美しいばかりに空を染めています。母と妹のいる家の方を見つめましたが、不思議に母も妹も絶対に逃げていると確信していて、不安はありませんでした。しかし夜更けて上級生のお母さんが、非常な衰弱で逃げてこられ、市内の様子を聞いているうちに、不安が募って来ました。上級生は一生懸命に看病しておられましたが……

八月七日
一夜明け、坪井先生が「行く所がない者は八木の修練道場へ行け。」と仰言るのを聞き何人かと、市内へ向かいました。途中川の上にかかっている、電車の鉄橋を渡りました。所々枕木がくすぼっていたり、焼け落ちたりしています。下を見るのは、こわくて出来ません。一本焼け落ちている間隔は広くて、足がすくみ這って渡ります。どうしても進めず躊躇していたら、前から来た兵隊さんが、無言で手を伸ばして引っぱって下さいました。誰も何も言いません、だまって前に進むだけです。やっとの思いで鉄橋を渡った途端、足の踏み場がない位の死者です。「水。」「水。」と、うめき声が異様に響きます。途中、息たえだえの人の手が私の足にさわりました。私の足をつかもうとしているのでしょうか。ゾーとして、身の毛がよだちました。こわくて、恐しくて、私は蹴散らすようにして逃げました。「ごめんなさい。」「ごめんなさい。」「こらえてね。」「こらえてね。」その人は、最後の力をふりしぼって、私に、すがりついたのに……まだ、あちらこちらで、くすぼっている暑い暑い地面を、死人につまずいたり、死人と死人の間に足をふみ入れたり、その後は、どこをどう通ったか余りのひどい惨状に後もどりしたのだと思いますが、記憶がありません。気がついた所は横川橋のふもとで警防団の人が乾パンを配っていました。私も一袋もらいました。この時、大倉和子さんと、もう一人と、私の三人が八木の修練道場に向けて行動を共にしていたのだと思います。もう一人の名前は今だに、どうしても判然としません。可部線は三滝駅から出るので、歩いて三滝駅迄行き、電車を待ちました。その時偶然にも私の親友と、ぱったり出逢いました。彼女は家が大芝町の為、川内町の陸軍軍需工場へ動員されていました。二人は走り寄り無言でだき合い泣きました。今迄焼けたゞれて死んだ人、ひどい惨状を見ても何故か涙は出ませんでしたが、この時は声を上げて泣きました。

八月八日
この日の記憶は全くありませんでした。父の死後、父の日記を見つけ、父との再会が九日であった事が分りましたが、それ迄は八月八日に父と再会していたのだと錯覚していました。

八木の幹線道路に立って、けが人をいっぱいに積んだトラックが、可部方面に向って通る度に「鈄屋町の人はいませんか?」と何度も大声で叫んでいたのを、思い出しましたので、これが多分八月八日ではなかったかと、何度も思い返しているうちに、思い出しました。

八月九日
当時父は大竹海兵団に入隊していて、原爆投下後、毎日広島に帰り私達を捜していました。

八木の修練道場に二泊した私達三人は市内の火も、ようやくに、おさまったので、家族の安否を確める為、寄宿生達(修練道場が仮の寄宿舎となっていた)が動員先へ出かける隊列の最後尾について、広島へ向かいました。道場を下りて電車道へ出た所で、自転車に乗った海軍さんと目が合いました。びっくりしました。父です。父なのです。御互い走り寄って泣き続けました。二人の友は立ち止まり、じっと私達を見ています。私は自分一人の幸せが、二人の友に申し訳けなくて言葉もありません。父も私の気持を察して二人に拾円宛渡してくれました。(父の日記より。)

妹は死んだが母は生きている。しかも無傷のまゝで。父の自転車の後に乗って帰る道々心の中で、「両親が生きているような幸せは絶対にない、いづれ、どんでん返しが来る。」と、ずっと悪魔の囁きのような言葉が聞えていました。

牛田町にいた母と再会しましたが、母は何も言わず、泣きもしませんでした。何故だろう、普通なら抱き合って、生きていた喜びに泣くのが本当ではないか、と、考えましたが、母は妹を死なせたとの思いが深く、すべてに無感動になっていたのだと思います。又この時すでに原爆症の病に全身侵されていたのです。妹は家に居なかったら、疎開先にいれば、死なずにすんだのに、……
しかし私の両親に逢えた嬉しさでいっぱいの幸せは、やはり心の中の予感通り長くは続きませんでした。それは一ヶ月後の母の死でした。

これで私の十三才の忌まわしい暑い長い悪夢の四日間の懐顧を終えます。

先日、同窓会の事務を手伝っている同期生の話に、「同期生の死亡届を見ると、ほとんどが、南観音町に動員された人なんよね。」そういえば、あの時私と行動を共にした、大倉和子さんも昭和五十九年二月に亡くなられました。私は何とも言えない思いに駆られます。しかし私も還暦を過ぎて、六十三才。被爆後、苦労を重ねた父も昭和五十六年十月、他界致しましたが、現在私は幸せな家庭に恵まれ主人をはじめ、二人の子供や三人の孫にも恵まれ、平穏な日々を感謝し、亡くなられた人々の冥福を朝夕祈りつゞける毎日でございます。

一九九五、平成七年
  

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