昭和二〇年八月六日午前八時一五分。爆心地より一、七〇〇メートル、皆実小学校(陸軍暁一六七一〇部隊の兵舎として教室の一部を使用していた)にて就寝中(前夜徹夜で比治山に防空壕をつくる作業をし午前六時〇〇分帰隊して就寝)に被爆。爆風でコの字形に建てられていた校舎のうち、明治、大正時代に建てられた部分は完全にペシャンコに全かい。私が寝ていた昭和の建物は半かいの為に命びろいをした。窓ガラスが爆風で鋭い刃物となって割れ飛び、私も腕と足を負傷するも、直ちに外へ出て比較的元気な隊員(特別幹部候補生)を一一名集め、市民の負傷者を比治山の防空壕へとひなんさせた上、隊にもどり校舎の下敷きになった兵の救出に当ったが、キノコ雲が去ったあと真夏の太陽に照らし出された広島の街の状況は私が今迄見た事もない悲惨な状況でした。
子供も大人も半裸或いは全裸の姿で削がれたように皮膚がたれ下がり、頭、顔から全身血が流れ放心したように眼ばかり大きく開いたまますわり込んで、小さな声で助けて!水を下さい!とつぶやいていた。校舎の下敷き救出作業は作業機械がない為、遅々として進まず。カジヤとノコギリで屋根をはがしタル木を切り取りカベをはがし、かすかに聞こえるうめき声を頼りに、長い時間をかけて作業を続け、やっと出てきた足首をつかんで引き出す。被爆してから二〇日以上この作業のくりかえしであった。最もつらかったのは負傷者の看病で薬が赤チン以外何もなく、全身に巻かれた包帯が血うみで固まり、取替えると肉もはがれ患者は失神。痛さに耐えきれず泣き叫ぶ。血うみの悪臭と患者の身体の中をはい廻るウジ虫。「水を」とか細い声に振りかえると開いたままの眼と鼻から血を流してその人は息絶えていました。夜は壊われた校舎の木材を積み重ねその上にトタン屋根を置き、遺体をのせて一晩に三~四体火葬にした。腐った塩サバを焼く臭いに似た何とも言えない死臭が私の体にしみついてきた。
被爆後・・・・終戦・・・・約一ヶ月して郷里へ復員。夕刻、死臭のしみついた軍用毛布二枚を持って自家へ帰りついた。私の父はいろりの前に座っていて土間に立った私の姿をしげしげと眺めていた。ゆうれいと思ったらしい。仏壇には私のかげ膳が据えられていました。
復員してからの一〇年間、体調が悪く悪性の皮膚病に悩まされ、原爆病と診断されるのを怖れての日々を過ごしてたが、幸いに十年後からは九死に一生を得たのはこの世に何かの使命があった筈と思い、体調も良くなり仕事に励み続け、昭和四二年より六期葛飾区議をつとめさせて戴き、平成三年より現在まで同区の行政委員をつとめています。六一才の頃から体は内分泌腺機能障害との事で医師の指導をうけ食事療法を続けてます。
兔もあれ核爆弾はまさしく悪魔である事を地球上の全人類に伝えなければならない。こらから生れくる二一世紀の人々にも、戦争はやってはいけない。何処迄も話し合いで。大切な地球に住む、同じ人類なのだから、仲良く平和な地球にしよう!
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