昭和一九年に私たちの中学(広島高等師範学校附属中学校)の五年生は、それまでの呉海軍工廠での苛酷な奴隷的労役から解放されて、広島市南部の広島工業専門学校にあった海軍工廠分室に移り、米軍の電波探知機に感応しない軍艦用塗装材料の開発を手伝わされた。
翌年の春だと思うが、同級生のうち私だけは、陸軍被服支廠本部に行けと中学から命令され、そこで共有金保管委員助手という職務を与えられた。要するに工員たちの社内預金の計算業務という楽な仕事だった。
昭和二〇年八月六日にそこ(爆心地から二キロ半)で原爆に遭ったが、分厚い鉄筋コンクリートの倉庫で働いていたので無事だった。ただ、窓際で働いていた人々のなかには爆風で目をやられた人がいた。同じ廠内でも木造建築は全部倒壊し、なにかの理由で近くの炎天下を歩いていた人々はたいがい火傷を負った。放射能のやけどを負った人々は、例えば爆風で飛んできたトタン板によって腕一本もぎ取られて血だらけになった人なんかに比べて「大したことはない」と当初は軽く見られていたが、その多くは化膿などひどい症状を呈し、数週間後に白血病で悲惨な死を遂げた。
この悲惨さは描写のしようがない。コンクリート製の倉庫のなか、裸の床の上に数十人の重症患者が死体と折り重なるように伏せってうめいている。言葉にならぬその声、体じゅうを這い回っていたおびただしい蛆虫、垂れ流しになった大小便とその悪臭など、どう表現すれば実態が伝わるだろう?
われわれは爆風でめちゃくちゃになった廠内の整備と、毎日何十も増える死体の処理、そして身近な外傷者の治療で手一杯だった。最初のうちは倉庫で寝る余地もなく、くたくたになって道路で仮眠するだけだった。異常に気温の高い夏だった。今後四十年間は草も木も生えないだろうとうわさが流れ、げんに周囲の多くの人の髪の毛がどんどん抜けていくので、不安は募るばかりだった。
私自身も被爆の数日後から毎日しつこい下痢に悩まされた。汲み取る人もいない仮設トイレに溢れる下痢便の状態など、もちろん思い出したくもないのに、いまだに夢に見ることがある。私はやがて白血球減少症にかかって、細菌を殺す白血球が足りないことの恐ろしさをその後長年も経験させられた。その後、九州大学温泉治療学研究所の勧めに従って信州別所で温泉治療をしたおかげだろう、白血球の数は昭和三十年代の終わりごろから次第に正常に復した。
被爆の日、級友の多くは勤労動員先で重軽傷を負った。数人は倒れた建物の下敷になって圧死した。田中哲という、名前のとおり哲学が大好きな親友は、四月に広島高等学校に進学しており、いつもは勤労動員に出ていたが、たまたま休暇で自宅にいたその日、家族もろとも焼け死んだ。もうひとりの級友は長崎工業専門学校に入っており、その原爆死が伝えられたのは半年以上もたってからだった。
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