(1)当時広島県仁保町丹那、兵団軍医部(医務関係の司令部)に勤務。原爆投下時は、朝礼が終って私は用水池に水を汲んでいた。突然異様な空気の圧力を感じ、地面に伏し暫くすると廻りがざわついて来た。頭を上げると事務所の窓ガラスは割れ、擦り傷を負った者が何人か集まって来た。少し後で気がついたら、約五〇坪程の炊事場の建物の屋根が爆風で、何処かへ飛ばされてなくなっていた。それから約一時間ぐらいして「近くの学校に負傷者が集まっているから治療にきてくれ」との通報で、取りあえず何人かで学校に行くと既に患者が何十人も横になっていた。負傷者は主に勤労奉仕の工場で毀れた建物の材木か異物での擦過傷や打撲傷の人が多く、中には腕の筋肉が裂けているような人も何人かいた。
この学校が大河小学校で、翌日から避難してくる被爆者の収容所となる。
(2)被爆者の中には病気で窓側に静養中被爆して、全身前面ガラスの破片傷の人がいたが、その他は殆ど火傷で、顔から胴体全面の火傷、又背中から腰まで焼けただれた状態の人が多い。
二日目からトラックで収容に努力。患者は市内から避難して海辺へ来て水をのんで木陰で横たわっている人が多くいたが、水を飲んだ患者はそのまま死んで行った人が多かった。
収容した学校の中は、全身火傷で赤肌のような焼けただれた人達で満員になって来た。室の中は夏の日中のことで異様な臭気が鼻をついてきた。
夜に向って収容した患者を学校へ運びまた死体を学校の片隅へ・・・・・・。
午前中軍医と共に被爆者の治療に廻りながら、私のもう一つの仕事は患者と面談して氏名を聞き、校門に名を貼り出し、家族が探しに来た時の目印にするための名簿を作成することだった。
(3)「心の苦しみ」九月初旬復員。翌二一年結婚。二三年長女、二五年長男が誕生した。
以来「被爆患者が東京の病院に入院のため上京」という新聞記事は約一〇年間続いた。終戦当時流言飛語で「草木も生えない」とか「子供は出来ない」とか言われて来たので、生れた子が無事に育成することのみを念じて一〇年が過ぎたとき、以後の後遺症もなく、ホッとする事ができました。
私は被爆当時、足にガラスの破片傷だけで、この両手で被爆患者に接し、また死者を運びながら、現在春と秋の検診を受け、健康でいられる事を幸せに思っております。「核兵器廃絶」を心から願うものです。
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