翌七日から第二総軍司令部へ動員されることになっていた私は水主町の叔母夫婦の家にいた。不透明な位濃く厚い黄色の光りが一瞬すべてをおおったと思った瞬間すごい爆風に吹きとばされあとずさりする形で倒れてゆくのと同時に二階建の家が崩壊した。気がつくと真暗闇の中に首を垂れた格好でやっと座れるだけの空間に私はいた。遠く頭上で女の人二~三人の声がする。誰かを探している。その人たちの声がきこえるのだから私の声もきこえるのかと下から声の限り助けを求めてみる。しかし全くきこえないらしい。やがてその人達も去りシンと静かになる。こわい位の静寂が始まる。時折壁土がすきまをころがり落ちるような乾いた音、叔母のうめく声をななめ上の方で一度だけ聞く。身動きできぬまま何分そこにいただろうか。三〇分か一時間か時間のことは分からない。そのうち竹のはぜるような音がきこえてきた。ここで死ぬのだと静かに覚悟して居ずまいまで正したのにその音をきいて必死になってしまった。家の下から外に出るまでの記憶は余りない。ただ壁の竹を折り土をはらいしたかすかな記憶は残っている。出た時は一面濃い煙の中だった。茫然として立っていると煙と煙のわずかに縦に切れたすきまから、はるか遠くまで何一つない空間が続いているのが見えた。叔母を助けなくては!煙の立ちこめる中足元を手当り次第さぐってみる。しかしものすごい力で押しつぶされてかたくかたまった土はどうしようもなかった。家がくずれたという感じはなく、ただ土まんじゅうの様な固い土のかたまりの上に立っているかんじだった。あたりの木々、電柱がてっぺんから火を出して燃え始める。心を残しながら川の方向に歩いてゆく。あきらめ切れず立ちどまると「そこにいてはダメだ」と男の人の大きな声がした。煙の中から抜け出したところに中年の男の人が立っていて目が見えないと言われる。みると頭の皮が頭の前面にたれて私はその皮を手でめくるように上げてあげた。でもよく見えないというその人に肩をかしてあげて川っぷちを川下に向かって歩き住吉橋のたもとにたどりつく。そこにはたくさんの人が集っていた。皆逃げてきた人ばかり。私は皆の体が異様に赤いのに驚いてしまった。どこで赤チンをぬってもらったのかしら。でも赤チンではなかったのだ。ぬれる程ではないが雨も降った。ガソリンではないか。死ぬのならみんな一緒とあちこちで声がした。
その住吉橋のたもとにたどりついた時から翌七日の午后三時位まで私は橋のたもとに座ったまま動けなかった。一たんはここで死ぬと覚悟したのに生きて出てきてしかも叔母を助けられなかったことが心の中を重く占めていた。七日の午后三時頃、住吉橋の上から放心したように川を見つめている叔父を見つけることができなかったら、今の私はなかったと思う。(叔母は大怪我をしながらも草津の小学校の収容されて現在も元気でいます)
あの時どれ程のものを見たか言いつくせないがただその中でも一つだけ、今でもこのことを思うとところかまわず涙があふれ出てくることがあります。住吉橋のたもとに座った私のとなりに学令前位の男の子が一人でいました。顔ははれ上がり目は両方共大きくとび出してはれて唇も中からめくれあがりきているものもぼろぼろになっていて本当にいたましい様子でした。でもその男の子は終始だまったままおとなしくじっと座っていました。父や母を呼んで泣き叫ぶこともなく、ふさがれた目で何を見ていたのでしょうか。私にもそかいしていた同じ位の小さい弟がいましたのに私はその子を抱いてあげることもせずやさしいことばをかけてあげずその男の子に言ったことは「お水をのんではダメよ」と言ったことだけでした。その子が「お水ちょうだい」とやっとのことのように言ったというのに。けがをしている人には水をのませないようにと大人の人がふれて歩いたことばを守って何とつめたい自分だったことかそして名前さえも聞いてあげませんでした。六日の夕方その子は亡くなりました。船が何度ものぼってきてその子も連れて行かれました。島に連れて行って焼くのだと近くにいた人から聞きました。私はこの五〇年この時の男の子を思うと申しわけなさと一五才にもなっていたのにと自分で自分を情なく思います。なぜ抱いてあげなかったのか。抱いてあげていたら、名前をきいてあげていたらと思いは尽きないのです。この五〇年この男の子をずっと胸に抱いてきました。今はこの男の子に私が守られている様に思う時もあります。でもやはり涙はあふれ出てくるのです。
戦争があって被爆者となった私ですが日本人である以上被害者であり又加害者でもあります。しかし何といっても戦争を考える時戦争は無条件に悪以外の何者でもありません。戦争は絶対にしてはならないことです。人々を殺し敵国をいためつけるため兵器をつかう人間は地球上の生物の中で最も愚劣であることを深く反省しなければいけないと思います。一人一人が真剣に心の奥深くにしっかりと平和の文字を刻み込んで日々をくらしてゆくことの大切さどんな小さなことでもその心の持ち方からよい方向への建設的な考えや行動が生まれ又万々が一の時の良識の強さ大きな力になると思うからです。どこかで戦争がありつみもない子供たちの悲惨な生活を見聞きする時心がゆりうごかされるそんな心を持ち続けることが世界の平和核兵器廃絶への一ばんの基盤のように思います。
以上のものは東友会が「未来への伝言」という題で被爆の体験と証言1.ぜひ伝えておきたいあの時の光景や出来ごと。2.被爆後の病気や生活や心の苦しみ。3.今被爆者としての生き方と訴えたいこと。にかいて送ったものです。あの日のことを一度もかいたことのなかった私が初めてかいたものです。同じものですが別のことはもうかけないのでお送りします。
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