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私の被爆体験の中から 
中川 美代子(なかがわ みよこ) 
性別 女性  被爆時年齢 29歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1989年 
被爆場所 広島市(千田町)[現:広島市中区] 
被爆時職業 主婦 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
中川と申します。大正、昭和、平成と三代を生きてきまして今年七三歳になりますので、体験を語るといっても、記憶が大分薄らいできまして、お聞き苦しいところもあるかと思いますが、御承知の上、しばらく耳を傾けて下さいますよう、お願いいたします。

私は広島で生まれ、育ちました。結婚後は、主人の両親と一緒に軍港呉に住んでおりましたが、主人は学徒動員で軍隊に入り、そのまま広島の牛田にある工兵隊に属し、私は毎週土曜、日曜に面会に行っておりました。でもその都度汽車の切符を手に入れるのが困難でしたので、これじゃあと。思いきって広島に出た方がいいと決心し、知人を頼って千田町というところへ移りました。そこで原爆に遇ったのです。呉にいれば、そんなめに遇うこともなかったのに、わざわざ被爆するために広島に行ったような結果になってしまったのですが・・・・。

私は知人の家の二階を借り、一階には、おばさんと中学生の息子がいました。八月六日の日には、おばさんは郊外へ野菜を買出しに、私は学友を訪ねるつもりでおりました。朝七時半には空襲解除になったので、今日は大丈夫だという安心感があったのですね。おばさんの方が先に、八時ちょっと過ぎに出かけていき、私はまだ、台所でごそごそしていると、ちょうど八時一五分になりました。

急にあたりがピカーッとまっ白に光って、「これは何だろう?」と思う間もなく、ドーンとわれんばかりのものすごい音がして、お腹の中にまでひびき、と、同時に、家がグラッときて、そこらにある障子やふすま、ガラスなどがみな、とび散ってしまいました。お勝手にいた私は落ちてきた瀬戸物で、目の上から、頭にかけて、怪我をし、血をとめようと、タオルで包帯をし、丁度、日赤が近くにあったので、手当をしてもらおうと、家の外に出たのですが、見ると、前の家の屋根が落ちて、玄関の上に一~二メートルも高く積もっているのです。それをとび越えて、日赤の方へ走っていくと、途中で会った人に、「日赤に行くのかね?」といわれたので「はい」と答えると、「行っても、あそこは怪我人がいっぱいでとうてい診てもらえないから、行かない方がいいですよ。」と言われ、それではしかたないからと引き返しました。今度は近くの家から火が出て火事になりかけました。そのうちに、朝出かけていったおばさんが、私の名を呼びながら帰ってきて、お互いに無事を喜びました。でもゆっくり話すひまもなく、今度は町内会から「早く避難せよ。」という命令が出ました。避難先として、宇品の広陵中学の校庭に行くようにという指示が出たものですから、とりあえず、間に合うものをリックに入れ、三人で御幸橋という、広島で一番大きな橋を渡りかけたところ、黒い雨がどんどん降ってきて、タオルを頭に被り、急いで広陵中学に行きました。

校庭には既に、怪我をした人達がいっぱいうずくまっていました。そこで、傷を手当するのに衛生兵がくるまで待つようにといわれました。お昼になり、カンパンを一〇個くらいもらいましたが食べる元気もなく、横になっていました。昼も大分過ぎた頃に、軍医と二人の衛生兵がやってきて、順番に手当をし、いよいよ私の番になったら、「ああ、これは大分傷が深いね。縫わなきゃダメだ」と、六針程、途中で糸が針から抜けたり、大分時間がかかりましたが、縫ってもらいました。その夜はそこで野宿することになりました。夜になると、蚊は出るし、傷は痛むし、あちこちからうめき声がしたりして、殆ど一睡もできませんでした。夕食にとおにぎりを一つもらったのですが、それものどを通らず、気分は悪いし、ただ、横たわっているだけでした。

朝になると、少し元気も出て、朝食にもらったおにぎりを食べました。さて、これからどうゆう身のふり方をしたらいいのだろうかと思っていたら、広島大学の倉庫が焼けのこっているから、とりあえず、近所の者はそちらへ帰るようにといわれて皆で、トボトボと、元きた道を戻って行きました。自分達が住んでいたあたりはきれいに焼けてしまっていて、ただ、避難先の住所を書いた立て札がしてあるだけでした。私は呉に帰るといっても汽車は不通だし、どうしたものだろうと思っていると、丁度、主人の父が呉から、自転車で、私を探しにきて、やっと探し当て、私が元気でしたので安心してくれました。ここにいても仕方ないから呉に帰ろうといってくれたのですが、一方、自分の息子である私の主人のことも気になるものですから、とに角、一応、軍隊をたずねていこうと。ふつうなら、バスや電車にのらないと、とてもたずねて行けないところを、義父の自転車の後ろについて歩いて行きました。街は一面焼け野原でわずかに残っていたのが、フクヤというデパートでその向こうに、中国新聞社が外観だけ残っているだけで、まさに一望千里とはこのことだなと思いながら、ガレキの間を、傷の痛みも忘れるくらい一生懸命「とに角、軍隊までいかなくては」と歩きました。太田川の河口で、黒コゲの被爆者の死体がゴロゴロ転がっているのを見た時、本当にショックで、こんなにひどいことをと見ないように目をつぶって歩きつづけました。やっと工兵隊まで辿り着き、門衛の人にわけをいうと、当番兵を呼んで下さり、「元気でしたよ。昼も私が食事を運びました。ちょっと呼んできます。」と、その当番兵は主人を呼んでくれました。木の陰で待っていますと、顔やら足にガラスの破片があたって傷だらけの主人が出てきました。主人は功績係で部屋にいたので、爆風で一メートルくらいとばされた程度ですんだんだそうです。みんな、それぞれ生きていてよかったねといって、手をとりあって喜びました。そして、とに角、私は、呉に帰った方がいい、自分は兵隊達の遺体の処理をしなければならないので、一ケ月くらいは帰れないだろうと、主人がいいました。その遺体をどうするのか?ときいてみれば、山のように積み上げて、油をかけ、火をつけて燃やすんだそうですよね。遺体のそのにおいが鼻について、どうしようもないから、マスクに香水をふりかけて作業するのだがそれでもまだ、当分、そのにおいが消えなかったと主人はいっておりましたが。

ま、とりあえず、私は呉に帰らなきゃと思いましたが、汽車は海田市といって、広島から二つめの駅でないと折り返しの呉線が通ってないのです。そこまでは歩いてでも、とに角、帰れさえすればいいわと思っていましたら、後から中年の人がきて、「呉に帰るんでしたら、私の自転車の後に乗りなさい。海田市の駅まで連れていってあげましょう」と親切に声をかけてくれました。本当に救いの神様のように思われて、心から感謝したんですけれど、その方に乗せていただいて、又々驚いたことに、その方の奥さんというのが私の女学校の先輩で、同窓会の会長をしていた人のだんな様だったのです。まあ、不思議な縁ですね。帰ったら、いずれご挨拶に伺いますと、お礼をいって、海田市から一人汽車に乗って、呉の家に帰りました。家の人達は、おそろしく腫れ上がった私の顔をみて、びっくりしていました。でも、生きて帰れたんだから、よかった、よかったといって喜んでくれましたけれど。

私は、その時、なぜ、原爆を落とされるまで、日本は戦ったのだろうか。悲しいなあと思いました。広島にいた時、よくB29がとんできては、そのまま、帰っていきました。その時、必ず上から、ビラを落とすんですね。何が書いてあるかと読めば、「もう、戦争をやめて降参しなさい。日本は絶対負けるのだからやめなさい。」というようなことが書いてありました。あのビラをまいていた頃に、日本が降伏していれば、こんな目に遇わなかったのに。悲しいなあと思いました。東京も、大阪も、名古屋も、呉までもがみな焼夷弾攻撃でやられてしまい、その最後に、それこそ一瞬のうちに、一三万人の命を奪った原爆を広島に落としてしまったんですから。悲惨な日本の敗戦を思うと、本当にくやしくてなりませんでした。

とりあえず、傷の手当をしなければと、又、毎日病院にいっていましたが、中々治療は思うようにならず、何回も切開したりして、一年ぐらいかかったでしょうか。そのうちにどうも、体の様子がおかしいので、産婦人科(焼け残っていた)へ行ってみましたら、妊娠二ケ月ですよといわれ、又、これでびっくりしまして。何とか体を大事にしながら、過ごすうち、翌年四月に、女の子が生まれました。栄養不良で、今だったら保育器にでも入れなきゃとても助からないような、小さな子でした。どうやって育てたらいいかしらと、途方にくれつつ、毎日、必死で、育てました。何とか、一年、無事に育ち、これでほっとしました。その頃には私が被爆したために後遺症が残ったり、子どもに障るような、そんな知識が全然なかったから、とに角、一生懸命育てていけばと、思っておりました。二五年には、男の子が生まれましたが、この子は体重も充分で、元気な子どもでした。

その年に丁度、主人が会社の都合で、広島に移ることになり、親子四人で広島に引越しました。宇品には焼け残った家が沢山ありましたので一軒の家を社宅として借り上げて、そこに住むことになりました。原爆が落ちた当時は、草木も生えないといわれてきた広島も、五年も経つと、草も木も生え、街路樹もきれいに育っていたのでほっとした気持ちになりました。子どもは小学校を無事卒業しました。その頃には、広島の学校の子ども達も、その親達も、かなり被爆者がいましたので、原爆に対しての恐怖とか、原爆症のことをあまり気にも掛けずにいられました。ところがその後、福岡に転勤で移ることになりまして、そこで初めて、被爆者であるということを口に出していってはいけないのだ、絶対口外しないということを固く守らなければと思うようになりました。人から「広島で原爆に遇われましたか?」ときかれても「まあ、ちょっとねー」といい逃れをしておりました。

その後、昭和三四年に、又、主人の転勤で、東京に移ってまいりました。それから、あちこちの友人や知人が原爆症や白血病になって亡くなったということをきくと、本当に自分の身に迫ってきたような恐ろしさを感じて、だまって、家族だけの心の中に入れておけばいいと思いながら、ずっと過ごしてきました。

ある時、広島の友人が電話をかけてきて「あんた、東京にいてよかったね。広島にいたら、被爆者の子は結婚できないのよ。」と言っておりました。それをきいて、私も娘もショックをうけました。本当にそうだったら、娘が結婚する時、被爆者の子どもであるというべきか、どうか。いわなければ、相手の両親に責められるし、いえば、被爆者の子どもさんでしたら、ご免こうむりますと、破談になるかもしれないと、思い、それからというもの毎日、毎晩考え、悩み、ねむれない日が続きました。こんなに自分が落ちこんでしまっては、と丁度、息子が中学生だったので、私も気持ちを変えて、PTAの委員とか、講座を受講したりして、少しでもその気持ちを発散させるのも一つの生き甲斐かしらと、それからは、一生懸命外に目を向けて過ごすようにしておりましたが、やはり、私も生身の人間ですから、夜になり、一人になると、又、そのことがもやもやと頭に浮かんできて、その苦しみを誰かに訴えることもできないしとたえにたえておりました。

そのうち、娘も、大学を卒業し、結婚適齢期になりました。そろそろ結婚する友達もあり、それを見て、「ああ、娘は結婚できないだろうな」と悩み、娘自身も「私はどうせ、被爆二世だから、行くところもないし、自活して生きていくことを考えるから」といい出して、親子で、何度も泣いたり、悲しんだりしたこともありました。そのうち、娘は三〇歳になり、結婚をあきらめて自活することを宣言しました。

しかし、ある時、何かの縁で、いい方に巡りあえ、その方はとても理解のある方で、そんなことは問題じゃないといって結婚して下さり、今は小学校四年生になる女の子もいます。又、幸せなことに、私も同じ家の二階に住んで親子で一緒に暮らしています。

考えてみると、私の体験は、中心地で被爆して苦しんでいる方々とは違って、精神的に、子供たちのこと、将来のことを考えて、悩みつづけてきたのですが。その悩みは消え去ったかといえば、今度は又、次々と、娘が具合が悪いといえば原爆症がでたのではないかと思ったり、人間ってどうしてこう悩みがつきないのでしょう。私も七三歳までなんとか生きてきまして、常に病院にいっては、いろいろと検査をしてもらったりしています。今のところ、症状が出ることもないので、無理をしないで、体を大事にしていたらいいですよ。と医者にいわれています。私の家では、私と、主人、娘の三人が被爆者です。八月六日がくると、あの時のことを思い出して、悲しいやら、腹立たしいやら、たまらないのです。

昭和一二、一三年頃、私は、広島で幼稚園につとめていたのですが、その時、幼稚園児だった子ども達が、その二〇年頃には、中学生で全員、勤労奉仕隊で街に出ていて殆どの子ども達が原爆で亡くなってしまい、どこできいて調べる方法もないし、あの小さい頃の可愛い姿が目に映って、八月六日がくると、手を合わせて祈らずにいられない程の気持ちになるのです。

核兵器は絶対になくしてもらいたい。世界の平和のために、みんなで協力して、これを廃絶する運動を進めていきたいし、私達も、しなければならない義務があるのだと、いつも私は考えております。

最近うれしかったことがあります。それは、先月、七月一〇日に広島市制一〇〇年の記念行事のオールドコーラスの交歓会があり、私は、「東京、町田」のメンバーとして広島に行き、二一団体の中の一団体として歌ってきました。好評をいただきました。他の人達は一泊だけでしたが、私は親せきがあるので一週間程、残りまして、市内をあちこち見てまわりました。五年に一度くらいは、帰っているのですが、行く度に変わってしまい、昔の思い出になるところは一つも残ってない。本当にこれが私の故郷なのかしらんと思いました。御幸橋を渡り、川を眺めながら、ああこんなに広島は変わってしまったけれど、この川と水の流れだけは昔のままで、私の心を慰めてくれる故郷だなと、思い、しばし佇みました。

又、うれしいことに、全員被爆で死んだものとばかり思っていた園児が二人健在で、そのうち一人は市内で歯医者をしながら活躍しているということを聞いて、まあ、よかった。今回帰ってきたおかげで、いいお土産も作れた。今回は逢えないけれど、いつか又、来た時に、何とかして逢って、昔話をしようと思いながら、帰ってまいりました。

私の体験談は、皆様の御期待に添えなかったとおもいますが、こういうことで、今後共、どうぞよろしくお願いいたします。

              一九八九・八・二六
              玉川学園文化センターにて
  

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