私は東京から広島に疎開して一一日目に被爆した。東京から二日がかりでたどりついた水主町の家は、県庁に近かったので家屋の強制疎開を命じられ七月二八日に明渡すとのこと。やっと帰郷した母娘三人はむくんだ足を引きずって、早速祖母を助けて、とりあえず荷物を大手町の親類の家に運んだ。二つの蔵からの荷物で階下も二階も一杯で連日その整理ですごし、八月六日はその荷物の一部を更に五日市に運ぶ為の荷馬車が来ることになっていて待機していた。八時すぎに空襲警報も解除になりもんぺを脱いだ姉妹は東京で聞きなれたB29の音に驚いた。「あれっ」と思った瞬間、凄まじい白光の後、何が何だかわからなくなった。目と耳をおさえてちぢこまった私は「死ぬ、死ぬ」とつぶやいていた。一瞬シーンと静まり返って、そのうち俄かにまわりからざわめきが聞えて来た。声を出すのをためらっていると、母が「大丈夫?」と叫んでくれたのでほっとして妹と殆ど同時に答えた。暫く助けを求めていたが、いっこうに人の来る気配もなく私は首の上に鴨居があって身動きが出来ない。そのうち怪我をしていた母が足に刺った棒を引き抜いて外に出て、姉妹を助けてくれた。母は肩と足の裂傷、妹は側にあった鏡台のガラス片で胸の数ヶ所に傷をしてクリーム色のワンピースが真赤になっていた。私は擦過傷程度で一番軽かった。
外に出て目にうつったのは、すっかり変った広島の町だった。見渡す限り家屋が倒壊して遠い山並みまで見えた。多勢の灰色の粉をかぶったような人々が頭から顔から血を流して茫然自失の様子でウロウロしていた。一様に下着姿でなかには上半身裸の人も多かった。広島の地理にうとい姉妹は、母だけが頼りで怪我をしている母を両側から支えて、とにかく高須の方へ逃げようとした。途中、おかっぱの少女からあの下にお母さんがいるので手をかしてほしいとたのまれたが、私の力ではどうにもにもならず、近くの中年の男の人にたのんであげたら「わしの背中を見てみい」と後を向くと皮膚がたれ下って赤むげの背中から水がしたたり落ちていた。住吉橋を渡ろうと思ったが対岸が猛火に包まれていて断念し、そのまま川岸に夕方まで座り込んでいた。火傷でまん丸な同じような顔になった人々、無傷のようなのにこと切れている少年。川の中が死体で一杯で、舟に助け上げられた女の人は片足の膝から下が切れて皮でぶらさがっていた。そのろうのような肌の白さが忘れられない。そのうち川下から救援の兵隊さんが舟で上って来て夕やみ迫る頃、金輪島に収容された。私たちの船と入れ違いで山の様に遺体を乗せた船が似島へ行くのだと出ていったが、後年たくさんの人骨が発掘されたのはこの人々だと思う。金輪島では簡単な治療をうけ、おにぎりを配られたがとてものどを通らなかった。隣に休んでいた若い母親は顔から胸までやけどして見えない目で子供を探しつづけ、乳首がやけただれているので張ってくる乳房の痛みにうめき乍ら翌朝亡くなった。三~四日目に敵機からのビラがまかれて「ここは危ない」ということになり、翌日陽の昇らぬうちに怪我人を大移動させることになった。数隻の砂利運搬船(?)の上に枝を並べて、その上に怪我人をのせ、数珠つなぎにして、それを赤十字の小旗をつけた小型蒸気船が曵航して大竹に向った。予定より大分遅れて太陽のてりつける海を行くのは怪我人にとってひどい苦しみだった。その上艦載機が一機飛来して銃撃をはじめた。蒸気船のたった一丁の機関銃で応戦したが届く筈もなく、そのうちけが人と認識したのか去って行った。大竹では海軍の手でトラックに乗せられ、それから更に奥の村の国民学校に収容された。温厚な村長さんの指図で村人が交替で看護して下さったが、ここでも次々亡くなって隣にいた七人家族も幼い姉弟二人だけになってしまった。母も具合が悪くなり、ある方にお願いしてやっと祖母のいる廿日市まで戻り、麻酔なしで手術もうけたが傷は癒えず、八月三一日の夜から傷口から少しずつ出血して九月一日に亡くなった。三八才だった。母の姉も当日早く出かけて被爆して運よく親類の舟に助けられたのに火傷で亡くなった。従妹も住吉神社で集って勉強をしていて被爆し、遺体はとうとう見つからなかった。妹はそれから二〇年近くも経てから胸からガラスをとり出した。
【高瀬二葉さんの「高」の字は、正式には「はしごだか」です。】 |