娘(福島洋子)(当時一年三ヶ月)と二〇年八月六日朝食中に飛行機の音とともに思はず娘を小脇に抱えたその時マグネシューム写真の目もくらむ様な光と鼓膜が破ける様な音に空を見上げると落下傘が三機飛んでいきました。皆はあれが爆発すると反対の方へ逃げました。外を見ると真赤な大きな火の玉が登りその下に真黒な茸雲が大きな柱の様に見えそれにつれて空が黒くなり黒い雨が降り出しました。市内から戻って来る人々の話では骨組丈になった電車の中で真黒にこげた人々が吊皮につかまったままの姿で死んでいると云う事でした。私には市内にいる義理の妹夫婦と私の姉夫婦が居りましたので心配になり食べる物等を袋に入れて洋子を負ひ市内へ探しに行くことにしました。(私はこの一週間前に可部に疎開して居りました)電車は祇園迄しかいかなかったと思います。その先は歩きながら馬車やトラックに乗せて貰い後は歩き横川、寺町を通り相生橋の近くの輜重隊に主人の妹の主人を訪ねました。
道には死体が歩るく事も出来ない程溢れ莚がかけてりありました。私はもしやと思ひ莚をあげ見ましたが真黒な死体に驚きました。太田川の河原では牛か馬か判別がつきかねる位に焼けていました。川の面に死体が浮んで川一杯にあり、ふやけている様でした。何処をどう歩いたのか見渡す限り焼野が原を彷徨い歩きました。
途中休んで居ります兵隊さんの点呼をとって居りました。兵隊さんは殆んどの人が負傷をして居りました。その時上官が「まだまだ戦争が続くが後に続いて来て呉れるか?」との問に誰も答えませんでした。私はそれを見て日本はもう駄目だと思ひました。
唯々見渡す限り煙と焼のが原の印象が強過ぎてどう歩いたのかはっきり思い出せません。妹の部隊ならいるだろうと(西練兵場の相生橋寄りの方だと思います)そこを目当てに歩きました。部隊には妹の主人は不在でした。義弟を知っていると云う人に持参したものを依頼しました。又歩き廻って姉夫婦を訪ね歩きました。平良村にいると云うことを知って市内を横断する様に又歩き続けました。二日位平良村にいましたが兄の部隊のトラックに便乗して市内に入り歩いて可部にたどりつきました。その間五寸釘をふみぬいて真黒にやけただれた顔をして釘を抜かうと思いましたが血でこびりつき抜けませんでした。又無傷の兵隊さんが可部に来ましたが毛が抜けて血を吐き四、五日して亡くなりました。私も赤痢の様な下痢が続き時には倒れたりしました。可部のお寺では毎日死人を焼く煙が絶え間なく三ヶ月位続きました。
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