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被爆体験について 
津田 和子(つだ かずこ) 
性別 女性  被爆時年齢 13歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
昭和二〇年三月、東京大空しゅうで都立家政で直撃で家を全焼。広島の親戚をたよって爆弾のおちる一ヶ月前、七月に広島にゆく。

原子爆弾のおちる前の夜は空しゅうで、朝すべて解除され、妹が高熱を出していたので上の姉と二人で氷屋に氷を買いに行ったが、空しゅうで氷がなく買わずにかえり、家の近くで二つ上の姉がじゃが芋の配給をとりにゆくので、その乳母車をかしてといわれ渡し、姉は火傷をおった。私達二人は、叔母のはなれをかりていて、叔母が低血で朝おそいので乳母車を無断でかりたのでことわりに行こうか、まだねているかもしれないからどうしようと思っている時、閃光と音とあたり一面真黄になり爆弾がおち地面にふせた。

これで自分も死んだと思ったが生きていて、家はすべてこわれ、はなれに母と妹がいたので生埋めになっていると思ってかけつけ、妹は二階にねていて下にいる母の所に下りようとして階段で生きうめになり、さかさになって足が二本出ていたので夢中でほった。壁土でびっしりで早く出さないと窒息していた。母は一階で二階の屋根や床、その他で女手ではどうしようもなく、走っている兵隊さん助けて下さいとさけび、叔母がガラスで血だらけの顔で人をたよってどうするといわれたが、どうにも角材等動かず又兵隊さんによびかけた所、五人位かけつけてくれて母を助けてくれた。二つ上の姉は顔半分と腕、手と火傷した。皆合流してトボトボ歩いている時、兵隊さんが悲惨だなとつぶやくのを聞いて、軍国主義で教育されて育った私もその時はじめて戦争とは如何に悲惨なものかと思った。

私が結婚する時、先方から健康診断をかわそうとゆう話が出て、戦争のために私もこんな被害を受けるのかとつくづく戦争をうらみました。でも前々から自分の健康に自信がなかったので慶応病院で骨ずい検査までして全く異常がない事がわかり(異常が出ても主人は結婚してくれるといってくれました)結婚し、子供三人生みました。長男が子供の頃、ひどい鼻血がよく出てこれも私が被爆した故かと非常に心配しましたが、薬品で出る個所をやいてから治まりました。でも私が被爆している事が子供の結婚にさわってはと思い、被爆している事は家族は知っていますが他人にはふせています。子供三人共健康にそだち、結婚し孫も五人になり幸せに暮らしています。東京で育ち、おちる一ヶ月前に広島にゆき広島ではいやな思い出ばかり、広島の名前をきくだけでもいやです。おちた時一緒にいた姉が去年子宮がんになり、私もどうなるのか一寸自信がなくなりました。

この悲惨な核爆弾をどうして根ぜつしないのか、人間のおろかさにあきれます。おろかな人間はいつか自分達で作った核によってほろびるのでしょうか。
  

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