忘れられないあの日の青空、殊の外きれいで日射しが強かった。朝の片付けも済み警報も解除になってほっとしているとき、閃光するどく驚く間なく吹き飛ばされて大音響と共に壁の下敷になり身動き出来ぬ。あちこちの悲鳴動けぬ体の上を三人走り抜けてゆく。足場が良かったのであろう。絶体絶命と思ったとき、生きてる証に足を出そうと必死で動かし、やっと片方ヒザから下が抜けた。人の声がして助け出されたら、課の上司であった。瓦礫の中を階下の通用口まで連れて降りて下さり一人で避難した。北上して白島方面へと思ったが電車が燃えていて進めず右折して泉邸の裏に出て流れてきた洋館の窓枠につかまりバタ足だけで対岸の河原に着く。河原の浅い所にふさっていて旋風にまき込まれ水の中へ。もう駄目かと思ったけど助かり、その後大粒の黒い雨がぽつりぽつり恐かった。
夕方まで居てやっと兵隊さんの救援で歩けるなら工兵隊の作業所まで行く様指示され、倒れ乍らやっとたどりつくが火傷が多くて私など診て貰えぬ。役所の方がこの丘に一〇人位集まって居て部長命で自宅に帰れそうにないものは近くの他の部長宅へ泊めて頂く。夜又空襲警報など出ても起きる気力なし。八日のひる頃やっと役所のトラックが迎えに来て下さり治療の為大竹海兵団までゆく。夕方やっと着き、終っていた治療を又門を開け頂きトラックで行った負傷者が治療受ける事が出来た。部長と文官の人と私と三人重傷の者だけ残して皆帰って行った。終戦の日まで病院に入院。徳山の空襲があり恐かったけど逃げる気力なく、一五日終戦の詔勅を聞いて部長について無理だと云われたのに心配な自宅へ帰る。歩き続けて千田町の自宅まで暗くなって辿りつく。くたくたになっていたが両親の声を聞いたとき泣けて仕方なかった。
水道のこわれた谷間の様な水の音を聞き乍らバラックで過す。台風で三人が腰までつかり乍ら電車通を手をつなぎ合って逃げたことなど、一番若かった妹が一九才のまま姿もわからず亡くなって泣く涙も出なかった。
昭和五七年私の命の恩人がやっとわかり山口市まで会いにゆきお礼を申上げやっと私の終戦の感じだった。長く生きられぬと云われ乍ら今日までこられて幸せをかみしめている。老いて亡くなった妹をなつかしみ悲しむこの頃です。
五〇年は本当に長い、短い様な時間でした。今も左手はしびれが残り、力が弱々しく危かしいけど、若さで生きられたことに感謝している。たれ下って感覚もなくなってた左手が悪い乍ら今では一番頼りになっている
|