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煙崎 定子(たばさき さだこ) 
性別 女性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1996年 
被爆場所 広島市(千田)[現:広島市中区] 
被爆時職業 主婦 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

昭和二〇年八月六日

広島の夏の朝は、花売りの小母さんの声であける。美しい空には雲一つない。疎開作業に行く人達が、足早に家の前を通って行く。七時頃警報のサイレンをきく。それも間もなく解除、私は三才の長女病気のため、乳母車に乗せて、日赤病院へ行く為、八時十分頃家を出る。千田町の公設市場を過ぎ、余り暑いので近道しようと、小路へ入った瞬間、ボールのような青い光が、十メートル位先に見える。「あっ」と思うと同時に、どさりと両側の家が私の上にたおれかかり、夢中で子供をかばって、乳母車の上に体を伏せる。子供は恐れて泣き叫ぶ。辺りは真黒。幸にして乳母車の幌と取手が、落ちて来た大きな木を、支えてくれて私は助かる。少したって辺りが、明るくなると私の横に、鉄格子の窓があり、私はちょうど檻の中に入ったようである。ゆさぶって見るけれど動かない。必死で助けを求めると、七才位の白いシャツ着た男の子が、ふと寄って来て、「おばちゃん出れんの」と言う。「すまないけど早く誰か呼んで」と、頼んでみるが、うつろな目をして、黙って立去る。

辺りは全く静か。そのうち近くで、パチパチと燃える音がする。ああこうしていては駄目だと思い、体を動かしてみるけど、背中には落ちて来た壁土、小舞、瓦がずっしりと重い。それを少しづつ片手で、取りのぞき車の中の幼児を、やっとの思いで連れ出す。そして四方を見ると、折り重った材木の間に、少し明りが見える。ああ、あそこ迄行けば、外へ出られる。助かったと思い、子供を下にして腹ばいで、やっと外に出る。もう火の手はあちこち上り、「この下に人がいます。手を貸してください」「助けてくれ」と叫ぶ声があちこちでする。子供はふるえて、私の背中にしがみついているので、どうしてあげる事も出来ない。「どっちへ逃げたらいいのですか」「川はどちらですか」と道をきく人のむれは、ああこれが人間かと思う位、男女の別もつかない。

爆風で頭髪はちぢれ、顔は血と砂ぼこりでどす黒く、流れる血で目が、見えぬ人、裸の体に皮が幾重にも下り、両手を上にあげた人達は,皆裸足で前の人について流れて行く。「風上はこちら、ここを真直ぐ行きなさい、川へ出ます」と私はそれだけ云うと、皆とは反対に鷹ノ橋へ出る。角にあった消防署も、高い火の見台も、何所か吹き飛んだのであろう。目の前にぽつんと比治山が見える。紙屋町辺りは、真黒い煙が空をおおって、赤い炎だけ見えて凄い。人々は火の手の間をぬって、西へ東へと逃げて行く。明治橋の袂で、挺身隊らしい女の子、四五人うづくまり、一人は頭をアスファルトに、こすりつけて苦しんでいる。「水を下さい」と言はれても、どうして上げる事も出来ない。通りがかりの男の人が、「もう直ぐ救援隊が来るから頑張れよ」と大きな声で励まして通り過ぎる。川は満潮、対岸の吉島町も、もうすっかり火に包まれ、我が子の名を、必死で呼んでいる声が、火の中で聞こえる。でも姿は見えない。全壊した家屋が、道をふさいで歩く事さえやっとである。家にたどり着くと、母がぽつんと立っていた。

もう火は近く迄迫って来ている。防火用水だけでは、とても消す事は出来ない。母と共に土手へ出る。義父も前の家のおばあさんと、お孫さんを、助けて立っていた。近くにいた人が、この釣舟で逃げましょう、と声をかけて頂き、皆で乗って川を下る。南大橋の上は、吉島飛行場へ逃げる人で一杯である。

その頃B29一機己斐上空辺りから、市内へ入って来るのが見えるけど、皆黙って空を見るだけである。宇品暁部隊の上陸用舟艇数隻が川を上って行く。もうすでに重傷者を乗せた船が、私達のそばを通る。

暑い陽ざしを受けて、甲板に寝かされているのは、学徒か挺身隊の女子ばかりの様である。「お母さん、お母さん呼んで」「お水を飲ませて」「兵隊さんこの仇とってね」皆殆んど動かない。「しっかりするんだ」兵隊さんの声がする。「むごい事よのう」母が泣いている。私も汗と涙の顔を、そっとふく。戦争なんかもうどうなっても、いいとさえ私は思った。喉はからから、幼児が水水と泣くので、仕方なく海の水を手拭いで、漉して飲ませる。水中にいても火傷おったのか、一〇センチメートル位の魚が沢山浮いて、片身をよじらせて泳いでいる。潮は引き始めて岸辺の砂が見えて来た。ふと気がつくと、羽根を焼かれて、黒い肌をみせた鳥が、舟べりに止っている。手をさしのべると、砂場へ降りて行き、水を飲んでいるのが、いたいたしい。糧秣廠の裏へ舟を止めて休む。もう陽は暮れて、全市は火に包まれ空は真赤。対岸の吉島塗装会社から凄い火柱がたっている。宇品一帯は火災をのがれて、静かな夜を迎えている。兄は無事に逃げているかしら、燃える市街地を見ながら、唯、夜空に祈る。石垣の間で虫の声がする。何だか悲しい予感がする。幼児はすやすや母の膝で眠っている。警報をきかない夜を、舟ですごす。

八月七日

舟べりを叩く水の音で、時折目が覚めて、眠られない。降るような星空、時間も解らぬままに、夜明けを待つ。向う岸で女の子の、「水を下さい」と云う声が微かに聞える。その声も次第に小さく消えてゆく。よく見ると川土手に、数十人ねかされている。警備の兵隊さんが立っている。皆もう亡くなっているのであろう。引き潮に乗って、沢山な死体が流れて来る。唯ぼんやり見送る。母が念仏称えているようである。大手町へ舟で帰る。何もかも綺麗に焼きつくされ、近所の人の姿も見えない。ポンプだけが残り、使ってみると水が出る。思いきり飲む。地面は熱くて、何もさわれない。兄は帰っていない。

兎も角、私は二部隊へ行こうと思って、母に子供を頼み舟を出る。明治橋の袂で、昨日水を下さい、と云った女の子達は、折り重って死んでいる。中年の男の人、女の人の死体が無数にある。鷹の橋迄出ると、まだ誰も通る人もない。余燼の白い煙が、あちこち立ちこめている。焼跡の石の上に、知人の髪結の小母さんが娘さんと、肩に襤褸のようなものを、掛けて坐っている。小母さんの顔は蒼白く、腫れ上っていて、息も苦しそうである。

「あんたは無事でよかったね」と云って下さる。「小母さん大丈夫よしっかりして」と云うと「私はもう駄目よ、寒い」震えが来ているようなのに、どうしてあげる事も出来ない。娘さんに声かけても、返事がない。「誰か助けてあげて」と思っても人影もない。軍用トラックが通るので、手をあげても紙屋町の方へ無情に通り過ぎる。「頑張っていて下さい」と云って別れる。広い電車通りには、電線が垂れ下り、電車も黒く焼けおちている。乗車していた人も、其の中で亡くなっているのか、何も見えない。弁当箱が二つころがっている。

町は不気味な位静かである。白神神社辺りからは、沢山な死体が電車通迄、はみ出している。幼児が虚空をつかんで、半分起き上って死んでいる。涙も出ない。「ひどい」何とも云へぬ腹立しさで、胸が一杯になる。

数へ切れない死体は、燻製のようで余りの凄惨さに息をのむ。口の中はからから、汗で体はびっしょり。袋町の日本銀行の裏辺りで、破裂した水道管から、水が吹き出している。飲もうと思って行くと、数知れぬ死体、異臭さえしている。でも我慢してのむ。西練兵場に入る。ここも上半身裸体の死体が、ならんでいる。ゲートル革靴だけ身についている。馬によりかかるようにして死んでいる人もある。

救援隊のトラックが、重傷者を乗せているけれど、まだ乗せきれない人は、この熱さの中地面に寝かされている。お濠の中の蓮も茶色になっている。その中に十数人の死体が、皆パンツ一枚の姿で、うつ伏せで浮かんでいる。苦しさに耐えられなかったのであろう。橋を渡り城門をぬけると、お濠にそって沢山な重傷者が、この炎天の中を、地面に直接寝せてある。もうどの顔も真黒に腫れ上り、唇も大きく腫れて、白く膿んでいる。「水を下さい・・・・水を下さい」と云はれても、どうしてあげる事も出来ない。兄を探そうとしても、皆同じ顔で解らない。異様な姿に声をかけようとしても声が出ない。心の中で許して下さいと、云って通り過ぎる。

兄もとても生きては、いまいと思いながらも、まだどこかで生きていてほしいと願う。もしこの惨状母が見たら、どんな気がするだろうかと思った。師団司令部のある城跡迄行くと、まだ残り火が燃えている。繃帯を頭に巻いた将校一人。下士官の人が、小さな机の上で、何か名簿作っておられ、声をかけても、「まだこの有様で、何も解りません」との事。二部隊の大きな兵舎も、大本営の建物も何もない。何か形見と思って探してみるけど、風に白い粉が舞っているだけである。土はまだ熱くて、とてもさわれない。帰り道城門のそばで杖にすがった軍属の人が、「私は宇品十一丁目の○○です。ここにいる事家族に知らせて欲しいと頼まれる。無傷のようなのに、息も苦しそう。歩くのさえむつかしい様である。「解りました、元気を出していて下さい」と云っても、宇品迄歩いてゆかれない。紙屋町まで出ると、宇品暁部隊のトラックが止っていたので、運転手の方に早く知らせて欲しいと、依頼して帰途につく。通りすがりの人が、「兵隊さん達大勢牛田へ逃げて来ていますよ」と教えて下さる。そしてこの爆弾瓦斯会社に、おちたからこんなに、なったと話して下さるけど、私には解らない。これから牛田へと思っても、足が重い明日にしよう。

「勇気を出すんだ」と自分に言い聞かせながら帰る。

八月八日

時計のない舟の生活、星を頼りに夜明けを待つ。もう出かけると云うと、母がまだ早いと云う。辺りは暗い四時頃だろうか。暑くならぬうちにと、兄を探すため舟を出る。未だ死体が片づいておらず、つまずいて転びそうになる。あちこちから異様な臭いがする。

鷹ノ橋へ出て紙屋町の方へ歩くけど、未だ誰も通る人もない。焼けた電柱に、西部軍司令官の告示が貼り出されている。近寄って見る。何でも新型爆弾のように書いてある。戦争はまだ終っていない。まだ戦うのだろうか。私は憤りをおぼえる。

紙屋町の一角で、兵隊さん達数十人腰かけて休んでいる。一部の人は長い柄のついた手鉤で死体を引き寄せては、大きな深い穴へ放り込んでいる。急造の担架であちこちから、運んで来ては、投げ込んでいる人もある。

性別さえ解らぬ幾体かの、数へきれぬ死体は、間もなくガソリンがかけられて、火は燃え上がる。私は唯呆然と見る。涙も出ないで息をのむ。大きなマスクをかけた作業の人達も、皆無言である。何でも徹夜の作業らしい。私の傍にいた一人が、「ここいら辺りが一番多いので、こんなにしないと、どうにもならんのです」と云って煙草を吸いながら、「貴女も罹災者の方ですか」「そうです、これから牛田の方へ行きます」と云うと、「大変ですね、気をつけて行って下さい」と云ってカンパン一袋下さる。そして熱いお茶を頂く。火は次から次と燃え続けて、死体は処理されてゆくようである。こんな事があっていいのだろうか。私はそっと手を合せる。兵隊さんにお礼を云って別れる。八丁堀の方へ歩き出すと、旅行者の一団が、途中汽車不通の為、重い鞄を肩にかついで、「己斐駅はまだですか」と尋ねられる。「この電車道にそって西へ向って行きなさい」と教えてあげる。皆一様に、「一体これはどうしたんぢゃ」「臭い臭い」と云いながら立去って行かれる。私は白島線にそって歩く。浅野泉邸辺りか、まだ残り火が燃えている。焼けた電車の傍で、髪をふり乱した人が、立ち上ろうとしている姿が、目に入り私は背筋がぞっとして、夢中で走り出す。白島の鉄橋の上に貨車が、横倒しになり工夫の人達が作業中で、人影を見てほっとする。饒津神社のそばを通り、一歩土手に足を入れると、重傷者の人達が、狭い道をふさいでいて、私は「御免なさい」と云って、またいで通る。唯すまない気持ちで一杯である。

河原の草むらにも、大勢の重傷者、少し元気な人が、火を燃やしお湯を沸かしている。牛田の農家(まだ当時は沢山あった)の庭も、牛小屋の中も兵隊さんで一杯、皆苦しそうである。尋ねると「僕等は工兵隊の者です」と少し元気な方が云はれ、「牛田小学校にも沢山いますよ」教へて下さる。小学校も爆風で窓はなく皆教室の板の間へ寝かされている。もう口から目の辺りから膿が流れている。体一面に赤チンが塗ってある。大声で何か解らぬ事を言っている人もいる。二三人の兵隊さんが、忙しそうに走り廻って、いらっしゃる。苦しそうに誰か呼んでいる人がいる。「何ですか」と言葉をかけるけれど、何も言葉がききとれない。兄はいない。帰りかけると、「戸坂の方にも沢山いますよ」と教えて下さる。傘もなく歩く道は暑い。汗ばかり出て水が欲しい。飲む所もない。牛田の土手を川にそって歩く。歩いても歩いても、戸坂は未だ先と云はれ、心細い気さえする。やっと戸坂迄来ると、稲は青々として涼しい風が、吹きぬけて原爆の影さえなくて静かである。小学校へやっと辿着いたのは、もう正午なのか、婦人会の方が食事の世話して、いらっしゃる。校舎、廊下、広い校庭も大勢の重傷者。救護の手は足りないのか、炎天下の校庭にはすでに息絶えている人もそのままである。ここにも兄はいない。十才位の少女が、少し顔を横にむけて亡くなっている。口のそばには、みかんの空缶へ入った、重湯がそのままおいてある。飲ませて上げる人もなかったのか、母さんに会いたかったでしょうに・・・・・。少女の顔に蝿が止っているのを、おいながら私は今迄我慢していた涙がとめどもなく流れて、地面に座り込んでしまった。

今年も原爆の日が来ます。思い出は昨日のようで忘れる事が出来ません。

原爆の恐ろしさを、私達が少しでも書き残して置きたいと思って、書きました。

あの数十万の人達が一瞬にして血と汗と涙を、広島の上に流して、死んで行った事。「水を下さい」・・・・「お母さん」・・・・「仇をとってね」あの人達の悲痛な声が、私に呼びかけて来ます。

核戦争はないとは云えません。その恐ろしさを知っているのは私達です。

私の拙ない文でも、書きとめておきたいとペンを取りました。

 

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