八月六日私の父は広島市と安芸郡府中町の境界あたりの勤務先で原爆にあい、急ぎ広島市爆心地(旧猿楽町一丁目)に赴き義兄夫婦とその家族を、そして爆心地より一キロメートル位のわが家え母を探し、また子供を探すため約十日間も市内を歩きまわった。その後発病、昭和二七年発病、尿道に癌ができて二八年死亡。当時入院先(日赤)の先生は原爆によってではないかと質問したが、はっきりと言われなかった。けれど私は放射能によるものと感じている。祖父、祖母はすでに亡くなっているが癌ではないしそのような家系はみつからない。従って私はすごいあたり一面爆風と黄色の熱風に包まれて頭髪は逆立ちしたのを覚えているが、ガラスの破片を右半身にいっぱいつきささり出血多量で意識が薄れていくのを、助けられようやく出血がおさまったことにより一命をとりとめた。私は友達の家え行っていたので家族と会えたのは一ケ月ぶりであった。
姉は火傷がひどく一〇月には死亡した。
あの悲惨な情景は筆舌につくしがたい。今後放射能による影響がでないかと心の奥ではいつも案じている。
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