八月六日の朝八時頃父母・兄妹は爆心地近くの病院(島病院だと思う)へ行く為に五才の私をのこして大手町九丁目の自宅をあとにしました。「つれていって」と泣いてせがみましたが・・・・(その時が永遠の別れになりました)(兄と妹が疎開先の川内村でお腹をこわしたため市内の病院がいいといって八月五日に祖母、母私兄妹五人で九丁目の自宅に帰ったのです)
私は隣の子と外で遊んでいました。すると大きな飛行機が腹を見せて頭上を左から右へ(宇品から爆心地)飛んでゆきました。私達は「ア、B29だ」といっているとパーと明るくなりました。すぐ隣の家にかけこみ下敷になり一人ではい出ました。(耳の中は土がいっぱい入っていました)
そこで見た光景は一面みわたすかぎりペシャンコになった屋根ばかりで今まで目にしなかった山が見えました。(比治山だと思う)人が一人もいなくて私だけ立っていました。あたりはとても静かでシーンとしていました。すると人が少しずつ現れて吉島の飛行場の方へ走って避難しました。裸足で足の裏は焼けつくようでした。私は一人で人のあとについてどんどん、どんどん走りつづけました。橋も渡りました。前に走っている女の人は髪はバサバサで全裸の人もいました。飛行場では「水」「水」といって苦しんでおられました。「水を飲ませたらいけない」という人もいました。近所の兄と同級生の人もそこで亡くなられました。
昼は白いおむすびをもらって食べました。それから祖父母が来ました。祖母は自宅で家の下敷になり一人ではい出して近所の人と船に乗って避難し、祖父は水主町にあった県庁に勤めていたのですが当日にかぎって立寄るところがあり命びろいをしました。(県庁は全滅でしたのでいつものように出勤していたら亡くなっていたそうです。)父は東署に勤務していたのですが前日に私達が帰って来なかったら助っていたかもしれません。
夜は祖父母と三人で自宅近くの太田川の土手で睡眠をとりました。
七日の朝早く起きて川内村の疎開先へ帰るため両手をひかれて歩きました。電車通りに出る迄の光景は道には歩けど歩けど死体だらけで死体をまたげながら歩きました。小さい私は死体に足がついたりしました。何メートルおきにある防火用水には男女の区別のつかない真黒こげの死体がはし立のはしのようにまっさかさまにピーンと足がのびたままぎっしり入っていました。その光景がえんえんと続いていました。電車通りに出ると黒こげの電車が止っていて、その中には立っている人は立ったまま座っている人は座ったまま運転手は立ったまま、すみのように真黒でした。少し歩くと又同じ光景の電車を何台も見ました。広島駅には人は少なかったように思います。男の人がフンドシだけの人もいました。
その後どんな汽車に乗って疎開先へ帰ったか記憶にありません。七人家族が一瞬にして三人になりました。こんなむごい、恐ろしい悲しい思いは二度と世界中の人々に会わせてはなりません。
世界平和を願ってペンをおきます。
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