原爆投下時にいた場所と状況
広島市東千田町二丁目
屋内で棚から落ち物で眼の上から頭にかけて怪我
一号(直接)被爆
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
八月六日午前八時十五分外出する寸前台所に立っていたら突然ぱっとあたりが明るくなり、何だろうと思う瞬間にぐらっと来て障子、襖が飛んでガラスの飛び散る様。額に手を当てると血が流れて来る。あわてて布を出し傷に当て急ぎ外に飛び出し近くの日赤病院へ走るが途中で人に出会い日赤では負傷者が満員で診てもらえないとの事。引返し家に帰ると近所が火事になり避難指令が出て家の者三人で宇品へ行き広陵中学の門前で松の陰に場所を取り、午後軍医の手当を受けたが傷が深いと六針縫われた。一晩野宿をして次の日移動して広大のグランド体育館に落着く。主人を軍隊まで生存を確めに歩いて四キロ行く。顔中はれてしまう。無事で生きていられた。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
被爆後は呉市に帰る。主人の父母と同居する。傷の手当に病院通いを一年余りする。その中体内に子供の出来ている事がわかり二ヶ月頭痛がしたり傷が痛み不快な日が続くが二十一年四月に女の子が生れたが、小さい子供で育つかを不安の中に何とか育てなければと、原爆の恐ろしさが判って来ると、その影響を思い我が身よりも子供への思いが一ぱいで悩み心の苦しみと変って行く。
体内被爆の娘が小、中、高時代には、周囲の人達に被爆者である事をかくして通ったが大学生の頃になると将来の事を考え一層苦しみが増し夜も眠れない日が続いた。卒業後の結婚問題に直面し、被爆者である事を話す事の悩みも深刻になって来た。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
現在は年も取り、今日まで生かされた事を何よりも嬉しく感謝している。町友会もあって原爆に対する理解も世間に知られ、自分は被爆者という言葉が誰にでも話せる様になって、幸せと思う。生きる限りは被爆者という心の痛みは消え去らない。通院を続け、薬と検査をしてもらう。
二度と再び核兵器は投下されない事を心から願う。長崎広島の悲しい思いを世界各国の人々にも決して私達の苦しみをさせてはならない。核兵器廃絶に声を大にして願う。機会ある度に若者に原爆の事を話し続けて放射能の恐しさを訴えて行き度い。
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