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1945年8月6日-長い長い一日- 
田形 清人(たがた きよと) 
性別 男性  被爆時年齢 11歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2013年 
被爆場所 広島市銀山町[現:広島市中区] 
被爆時職業 児童 
被爆時所属 戸河内国民学校 5年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の生活
私は、山県郡戸河内町(現在の安芸太田町)の出身で八人兄弟の六番目です。当時、戸河内国民学校の五年生で満十一歳でした。母は昭和十六年に、父は昭和二十年三月に亡くなっていました。長兄の初市は兵隊で中国の大連に行っており、三番目の兄は長崎県の佐世保重工業に、四番目の兄の邦博は広島の日本発送電に徴用され働いていました。すぐ上の兄は国民学校高等科の生徒で寮に入っていましたが、勉強はなく、工場の機械を掃除する雑巾を川で洗濯するのが仕事でした。昭和二十年六月、次兄の章が召集されることになったので、急いで結婚し、私と弟は次兄の妻のユキ子の実家にお世話になっていました。
 
●兄に会いに広島へ
次兄の章は軍隊で、山口県熊毛郡田布施町に行っていました。その兄からはがきが届き、「広島陸軍病院の患者を府中町に移転させる手伝いをするので、八月六日に府中に面会に来なさい」と書いてありました。義姉のユキ子とその弟の教人君(同い年で私はあっちゃんと呼んでいました。)が府中に行く予定でしたが、出発する八月五日朝、ユキ子は体調が悪くなったので、代わりに私が行くことになりました。
 
●八月六日
遠縁が鷹匠町で東屋という旅館をしていたので、五日はそこに泊り、六日の朝、市内の日本発送電で働いていた四番目の兄の邦博が私と教人君を迎えに来てくれました。三人で路面電車に乗り、府中町に向かいました。ちょうど朝の通勤時間帯で電車は大変混んでいました。今日一日時間はたっぷりあったので、降りて歩こうということになり、京橋川手前、おそらく銀山町あたりで電車を降りました。

しばらく歩いていると、爆音がしたので、空を見上げると、B29が飛んでいるのが見えました。B29はきらきら光っていて、「きれいだのう」と言って見ていたのです。
 
●被爆の瞬間
よく「ピカドン」と言っていますが、私は光も音も感じませんでした。何か突然、唐突に自分の体がさく裂したような感じがして、一瞬の間か、数秒間か、私は自分に何が起こったのかまったくわからなくなりました。

私のすぐ前に、きれいな女の人が立っていました。十七歳くらいか、今から思うと二十二歳くらいだったかもしれません。その人は日傘をさして、人絹(レーヨン)のブラウスを着てスカートをはいていました。その日傘が燃えているのです。そして、ブラウスも燃え、ブラウスの肩や腕、胸の部分が燃え落ちて素肌が見えました。その素肌も胸も体も桃色にぽおっと燃えているのです。子ども心にきれいだと見つめながらも「こりゃあ、体が燃えよるわ」と思いました。

その時、「伏せろー」という声が聞こえて、目と耳を押さえてその場に伏せました。爆弾が破裂すると爆圧で目が飛び出してしまうので、当時はそのように訓練されていたのです。そのすぐ後、ぱっとものすごい熱風が来て何も見えなくなりました。兄は私と教人君の手をつかみ走り出しました。家が倒れ、私たちの後ろから砂嵐のような粉じんが追いかけてきました。兄は「防空壕はどこだー」と叫びながら走りました。私と教人君はとにかく無我夢中で兄の後について行きました。

辺りは逃げ惑う人々で騒然となり、あの時のきれいなお姉さんがその後どうなったかはわかりません。あの姿は、今でも絵に描きたいくらいにはっきりと、目に焼き付いています。履いていた下駄の鼻緒の赤い色まで目に浮かんできます。私は運よく建物の陰になって助かったのですが、わずかの違いで、その人は原爆の閃光をまともに浴びたのだと思います。
 
●応急手当
兄の邦博は、はぐれないように私と教人君の手をしっかりとつかんで、三人で広島駅の方へ避難しました。愛宕踏切の辺りでようやく三人とも我に返り、ある建物に落ち着きました。私と兄はほとんど無傷でしたが、教人君は顔が血だらけになっていました。顔や手を洗い、教人君の様子を見ると額に二センチくらいのガラスがかなり深くささっていました。兄は教人君に「がまんせえよ。」と言ってそれを抜きました。もちろん、兄は素人なのですが、うまく抜くことができ、持っていた救急袋から赤チンと包帯を出して応急手当をしました。

そこで、初めて市内中心部の方を見ると、空に大きなきのこ雲が見えました。その時はきのこ雲とはいいませんでしたが、その雲は二段になっていて、きれいだと思いました。

辺りには、「水をくれ」「水をくれ」という人が多くなり、水をくむ手押しポンプには行列ができていました。当時、重傷の人に水をあげたら、すぐに死んでしまうと言われていて、「水をやったらだめだ」という人もいました。片足がなく、ひどく出血している人がおり、兄はその人の足に、布を巻いて止血してあげました。その人は「水くれ、頼むから水をくれ」と何度も言いました。ひどい出血だったので、もう助からないだろうということで、兄は持っていた水筒の水をあげました。するとその人は「この水はぬくいじゃないか」と言うのです。しかし手押しポンプにはたくさんの人が並んでいたので、兄が「これでがまんせにゃあ水を飲むのは一時間も二時間も後になる」と言うと、「ありがとうのう」と言われました。その時はかなり年の人に思ったのですが、今考えてみると四十代半ばくらいの人でした。
 
●五日市へ避難する
そのあと東練兵場の上の方にある山に登り誰もいない洞穴でしばらく休みました。すでに昼は過ぎ、お腹が空いていたので、やむを得ず、近くの畑になっていたキュウリを何本か取りました。まだ収穫前の畑は遠慮して、収穫後の取り残してある畑から取りました。しかし、それを食べていると、兵隊につかまり、取り上げられてしまいました。結局そのキュウリは兵隊たちが食べていました。

日本発送電の社員は、何か緊急事態が起こった場合、祇園町(現在の広島市安佐南区)の西山本の国民学校に集合することになっていました。兄は今日中にそこへ行かなければなりません。このような状況になっては、府中に行っても次兄に会えるかどうかわからないし、東屋旅館もたぶんだめだろうと思い、私と教人君は、五日市(現在の広島市佐伯区)にある教人君の父の知人の家に行くことにし、そこまで兄に送ってもらうことにしました。

まず、比治山方面に向かいましたが、橋が渡れなかったので、干潮の京橋川を歩いて渡りました。兄の寮が千田町の広島工業専門学校の近くにあったので、行ってみたのですが、寮は潰れていました。兄が瓦を取り除いて「誰かいないかー」と呼びかけると「ここにいるー。助けてくれー」という声がしたので、私と教人君も手伝って、便所に閉じ込められていた兄の同僚を救い出しました。

住吉橋まで来ると山陽木材防腐の工場が火を噴いてものすごい勢いで燃えているのが見えました。観音では、潰れた家から兄は二人を救い出しました。私はすばしこかったので、瓦を取り除いた穴から家の中に入って行き、中にいた人を兄と協力して引っ張り出しました。助けられた人は涙を流してお礼を言っていました。

兄は十八歳でしたが、当時、時計は高価で、兄の年では持つことができませんでした。もちろん私も教人君も持っていません。時間がわからないし、人に聞くのも煩わしいので、亡くなった人の手を取ってその時計で時間を確認しました。初めはこわかったのですが、しばらくすると死体にも慣れてしまうのです。「この時計止まっとらー」、「こっちは動きよる」、「その人は懐中時計持っとってじゃ」と、死体から懐中時計を引っ張り出して、時間を見て、また戻すというようなことを何の抵抗もなくしていました。

兄は靴を履いていましたが、私と教人君はわらで編んだ草履でした。己斐に来た頃には、草履はもうだめになっていて、はだしでした。足が痛いのを我慢して、五日市まで線路伝いに歩いて行きました。私と教人君は両側の線路の上を、兄は二人の間で線路の中をずっと歩いて、やっと八幡川のほとりの知人の家に着きました。その家では、「何日いてもよいが、子どもだけを預かるわけにはいかない。おとなも一緒でなければだめだ」と言われました。しかし、兄は今日中に西山本(にしやまもと)まで行かなくてはなりません。しかたなく、私たちも兄について、西山本(にしやまもと)に行くことになりました。そこで、わずかな食事をいただき、半焼けのイモをもらいました。
 
●市内へ戻る
途中、市内に向かうトラックに乗せてもらいましたが、古田町辺りでトラックは進めなくなり、歩いて市内に入りました。市内は火の海で天満町や寺町も燃えていました。その中を歩いて横川の方へ行きました。火事で熱かったとかいうことは、あまり覚えていません。とにかく兄の邦博の袖を持ってついていくのが精一杯でした。お腹も空き、足も痛かったのですが、もっとひどいやけどやけがで苦しんでいる人がたくさんいたので、そのようなささいなことで不平不満を言うことはできませんでした。「水をくれ」「助けてくれ」と何度も声をかけられましたが、どうしてあげることもできませんでした。井戸には、水を飲もうとする人がいっぱい並んでいました。

市内を歩いてよく覚えているのは、真っ赤になったれんがのことです。当時の風呂は五右衛門風呂で、燃えるものはないのに、風呂場が燃えているのです。まだ子どもでしたから、何が燃えているのだろうと不思議に思い、棒でつついてみると、赤くなったれんがが燃えているように見えたのでびっくりしました。
 
●西山本で
夜十時頃やっと西山本の国民学校に着いて、そこで、やっと大きな大きなおむすびをもらいました。空腹だったので、本当にうれしかったです。今まで歩いてきた方向を振り返ると、空は真っ赤になっており、市内全体から煙が上がっていました。「爆弾は一発しか落ちていないのに」とみんなが話していました。本当に長い長い一日でした。
 
●戸河内に帰る
西山本の国民学校には軍隊が駐留していましたが、そこの兵隊さんはとても親切で、七日可部から三滝まで、鉄道が折り返し運転しているので、朝一番の便に乗れるように起こしてくれました。教人君の顔に赤チンをつけ、また、私はけがはしていなかったのですが、手を布でつってくれ、こうすれば、被災者だからただで乗り物に乗れるよと教えてくれました。可部で乗り換え、飯室まで行って、飯室からはバスに乗り、その日も暗くなってやっと戸河内に着きました。

バスから降りると教人君の父(次兄の義父)の大田義一が待っていて、「よく無事で帰った」と二人を抱きしめてくれました。広島は全滅したということで、「子どもを死なすために広島にやったようなものだ。」と言われたようなのです。私たちが帰ってきたことがよほどうれしかったのでしょう。「子どもが帰ってきたぞー」と町中を触れ歩きながら家に帰りました。
 
●次兄の死
府中で会う予定だった次兄の章からは、その後、ずっと連絡はありませんでした。九月になって突然、戦死の知らせが陸軍から届きました。どこでいつ亡くなったのか、どういう状況だったのかはまったくわかりません。遺骨もなく、確かその知らせを遺骨代わりに骨箱に納めて、葬式を行いました。兄は二十三歳で結婚してすぐ軍隊に入ったので、義姉のユキ子は、兄と生活を共にしたことは、ほとんどありませんでした。当時は、家を守るために、そういう結婚もよくあったのです。
 
●健康状態
私も教人君も戸河内に戻ってからしばらく下痢をした程度で、いわゆる原爆の後遺症はありませんでした。しかし、その後から私も教人君も「おねしょ」をするようになりました。精神的なショックなのかどうかわかりませんが、二人とも中学校を卒業するまで、それは続きました。また、おとなになっても原爆の話をすると、やはり失敗してしまいます。そのため、これまで原爆の体験を話したことはほとんどありませんでした。

被爆した時、私と教人君を連れて広島市内を逃げてくれた兄の邦博は、被爆から十年後、わずか二十八歳の若さで病気のためこの世を去りました。また教人君も六十四歳で亡くなっています。二人とも病名は肺炎でしたが、原爆に起因するものがあったのではないかと思います。

私自身は、健康には不安はないのですが、二人の子どものうち、息子は体が弱く、生まれた時からぜんそくがあり、また、腹膜炎などで、何回も手術をしています。これらは原爆の影響ではないかと心配になります。
 
●平和への思い
日本は、原爆で被害を受けた被害者ですが、戦争では加害者でもあります。福島の原子力発電所の事故の被害を受けた福島県の人は本当に気の毒です。でも原発は危ないということはわかっているのに、それを作って、それで日本は繁栄してきています。人間は、もっと過去のことに学んで、ものを大切にして、謙虚でなければいけないと思います。 

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