●被爆前の生活
当時、私は広島市仁保町本浦にある借家に妻と二人で暮らしていました。東洋工業(現在のマツダ)に勤めていましたが、工場は兵器工場として、六連発の歩兵銃を作っていました。当時は寺の鐘や家にある鉄を工場へ集めて、鉄砲の弾を作っているような状態で東洋工業だけでなく、多くの会社が軍需産業に関わっていました。
妻は六、七月頃に広島陸軍被服支廠を辞め、出汐町にある日本通運に勤め事務の仕事をしていました。当時、妻は妊娠六か月でした。
戦時中は食べ物がなく生活に苦労しました。
●八月六日朝
その朝、妻はすでに出勤していました。私は六日の晩から夜勤で会社へ行かなくてはならなかったため、寝ようと思って家で横になり休んでいました。ドカンと大きな音がして、その音とほぼ同時に食器棚が三メートルくらい飛ばされました。それほど爆風がひどかったのです。私は、けがをしませんでしたが、家の壁が抜けて、前の畑に落ちてしまいました。私が隣の家主さんのところに行き、大変なことになったと話していると、ちょうどきのこ雲がよく見えたので、どれだけ大きな爆弾が落ちたのだろうと思いました。
近所で広島駅前の郵便局に勤めていた人が、すぐに帰って来たのですが「中宗さん、大変ですよ。もう、駅の前はどうにもなりませんよ」と言っていました。私は妻と家主の娘さんを救いに行かなくてはと思い自宅を出ました。
自宅を出た後、知り合いの奥さんと出会いました。その人は背中全体をやけどして、皮膚がズルズルにむけ、着物が腰の部分だけ残っていました。レンコン畑で草取りをしていて、後ろから閃光を浴びたそうです。その時はまだ原爆とはわからないので、どうしてそのようになったのか不思議に思いました。
その人と別れ、私は最初に妻のところへ行こうと思い、勤め先の日本通運へ向かう途中、自宅へ帰ってくる妻と出会いました。妻は爆風で三メートルほど飛ばされて、打撲を負っていました。他に大きなけがをしていないので「家に帰りなさい」と言い、家主の娘さんを捜すため、千田町の広島貯金支局へ向かいました。その途中、私の職場の人たちが昭和町の付近で建物疎開作業をしていたので、その人たちを助けなければならないと思い比治山橋に行きました。
●比治山橋で見た光景
比治山橋には、やけどで皮膚の垂れ下がった人、けがをした人、「水をくれ」と叫んでいる人たちが何十人といました。建物疎開作業に出ていた若い人たちばかりで、気の毒と言っていいのか、恐ろしいと言っていいのか、本当にかわいそうで言いようがありませんでした。宇品から陸軍のトラックが来て、陸軍の兵隊さんが、けがをして自力で立ち上がれないような人々を背負いトラックへ乗せていました。トラックへ上げるときには二、三人がかりでした。その光景に、自分も見ているだけではいけないと思い、トラックに乗せる作業を手伝いました。その時は、けが人をどこに運ぶのかわかりませんでしたが、後で似島へ送られたことを知りました。
日本は戦争に絶対勝つと言っていたが、これでは日本は勝てないと思いました。また、同時に原爆の恐ろしさも感じました。
今でも比治山橋を通ると、ここでやけどやけがをした多くの人が泣いたり、叫んだり、うなったりしておられたことを思い出し、いつでも涙が出ます。ここで聞いた「ヒャー、みずーっ、ウェー」と叫ぶ声が忘れられません。比治山橋で見た光景が、最も恐ろしくて今でも頭の中に残っています。
●家主の娘さんを捜索
その後、家主の娘さんを捜すために、御幸橋へ向かいました。ここでもけが人や叫ぶ人、泣く人、やけどした肌がズルズルにむけている人がいて恐ろしかったです。御幸橋で被爆直後の被災者を撮った写真がありますが、あの写真のとおりでした。
御幸橋を渡って千田町へ行くと、広島電鉄本社より先は、道の両側の建物が燃えていました。その火の中を通って、広島貯金支局に着きました。広島貯金支局は燃えていなかったので、三階まで上がって娘さんを捜しましたが、ガラス戸は全て壊れており、誰もいませんでした。これではどうにもならないと思い引き返しました。家主の娘さんは結局行方不明のままです。
帰りも道の両側の屋根が燃えている中をかがみながら進みました。広電本社の前では、馬が死んでおり、けが人もたくさんいました。
比治山橋まで戻り、そこから市内の中心部を見てみると火災が真っすぐ駅の方へ迫っていました。その光景を見たときに、やはりもう戦争には勝てないと思いました。
自宅へ戻り、夕方の六時頃、広島城の方向を見ると街が焼けているのが見えました。大きな火の玉が上へ上へあがっており、火柱が立っていました。
夜になると、家をなくした人々が、本浦のイチジク畑に蚊帳をつるして休んでいました。私の家は倒れていなかったので、知人を泊めることになり、その日は六畳の部屋に六人が寝ました。
●八月七日以降
八月六日の夜、我が家に泊まった知人が、七日に疎開先の可部まで帰ることになりました。横川から可部線があるので、私は自転車で横川駅まで送っていきました。配給でもらっていたズックを履いていましたが、自宅を出て的場町の辺りまで行くと、まだ火災の熱で道路が熱くて、熱くてたまりませんでした。足の下から焼けるような感じです。さらに、八丁堀、紙屋町の辺りは、死体がいっぱいあり、臭いがひどくて通るのも大変でした。
相生橋の上から見た光景は忘れられません。川の中には何百人という死体が浮かんでおり、水面が見えませんでした。馬の死骸も浮かんでいました。
多くの人がうつ伏せになっており、服で兵隊さんだとわかりました。ここでも臭いがひどかったです。川の両側も死人が山となっていました。後から聞いた話で、工兵隊と二部隊の人たちだとわかりました。横川から戻る時にもう一度その光景を見ました。
また、大正橋の辺りも、亡くなった多くの人々が横たわっていました。あちらでもこちらでも亡くなった人を火葬していました。
●被爆後の生活
私は八月九日頃から十日間位、血尿が出て、大便にも血が混ざっていました。それ以後、徐々に少なくなりましたが、約三か月位は血尿が続きました。妻は、けがの箇所に赤チンを塗り治療しました。当時の広島は焼け野原となっており医者はいなかったため、診察してもらうことはできませんでした。
広島は焼け野原になって、自宅から横川や己斐の方がすべて見えていました。それが、六十数年のうちに、ここまで復興できたのは不思議なくらいです。
●自宅は原爆の爆風で壁が抜けていましたが、家主さんが板を貼って直してくれましたので、そこで生活をしていました。雨風がしのげるだけでも良かったです。
けれども、食糧がないことに困りました。野菜も砂糖も塩もなかったので、妻は海水をくみに行き、家に持ち帰って鍋で炊いて塩を作っていました。
●終戦と戦後
八月十五日、天皇陛下から、お言葉があるということだったので、ラジオを持っている家主さんと一緒にラジオを聞き、敗戦を知りました。
日本が戦争に負けたことを知り、情けなくて仕方がなかったです。あれほど勝つ、勝つ、日本は絶対勝つと言って戦争をしていたので、必ず神風が吹いて日本が勝つと信じていました。それなのに結果は敗戦でした。
その後、隣組から、外国の軍隊が攻めてくるので、女性や子どもで疎開できる者は疎開しなさいという伝達がありました。その伝達を聞き、妊娠中の妻を実家のある世羅郡へ帰らせました。幸い実家の近くには産婆さんがいましたので、子どもは無事に生まれました。
戦争が終わり、昭和二十年の秋頃になると、今なら肥料にするような大豆カスを一日にコップ三杯程度もらえるだけになりました。やがて配給はなくなり、栄養失調で亡くなる子どももいました。
八月六日に仁保町から建物疎開作業に出ていた近所の人も原爆の被害を受けました。けがを負っている人を連れて帰りましたが、その連れて帰った人々が次々に死んでいきました。毎日のように、近所の人の葬式をしており、仁保町にあった火葬場で遺体を焼いていました。
建物疎開は、爆弾が落ちて家屋が焼けたとき、周囲に火が燃えうつらないように、あらかじめ建物を壊して道路を広げる作業です。具体的には家の柱を切り、綱をつなげて引っ張り倒壊させます。しかし、原爆で結局この作業は役に立ちませんでした。
私は八月末に会社の工場へ行ったのですが、仕事ができる状態ではありませんでした。原爆でどのくらいの人数が死んだのか、会社を辞めたのか、わかりませんでした。
それから私はトラック製造の機械工として、昭和五十一年まで東洋工業で勤めることができました。
●平和への思い
被爆して亡くなった人はかわいそうです。十何万という罪のない人が、一発の原子爆弾で死んだのですから、憎むといっていいのかわかりませんが、やはりアメリカに対して良い感情は持っていません。今、どう思ってもしかたないですが、かわいそうです。
原爆があって広島が焼け野原になって、どうにもなりませんでした。医者もいない、何もないから情けなかったです。でも、これも戦争をしたからしかたないです。戦争をすべきではありませんでした。原爆の恐ろしさ、戦争の愚かさは言いようがありません。 |